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2023年5月28日日曜日

「恋に落ちる」と「本当の愛」の違い

 愛すること、生きること

M・スコット・ペック



愛とは、自分自身あるいは他者の精神的成長を培うために、自己を広げようとする意志である。


これが、著者の定義です。


さらに具体的に、愛について説明があります。


1.行動は、目指していると思われる目標や目的によって定義される。


これは、そもそも「それって愛じゃないでしょ?」の疑問に答えてくれます。

それでも、自分の依存心を満たすためや、孤独を埋めるために「愛」を使う場合があります。

このような時の「目標や目的」は、依存心を満たすとか、孤独を埋めることだと気づくことが大切で、「愛」と誤魔化したり偽ってはいけないということです。


2.愛の行為はそれが他者のためであっても、自分を成長させることになる。


別の書籍で書いてましたが、愛の行為は「自分の口座に貯金するようなもの」で、その目的が他者のためであっても、自分のためであっても、同じように口座には貯金が溜まっていくというものです。


3.人間を愛するということは、自分のことも愛することになる。


つまり、「自分自身を愛せなければ、他者を愛することができない」と同義です。


4.愛は努力なしにはありえない。


自分の限界を広げる行為は、「努力」を必要とします。

なぜなら、まずは限界を越えなければ、限界は広がらないからです。

誰かを愛する時、愛する人のためにもう一歩踏み出す努力によって現れます。


私たちは、誰かを愛することがあっても、それを行動に移せない場合があります。

そこで、著者は、愛には「意志の力」が必要だといいます。

まず、好きな人ができると、私たちは「二人で会いたい」とか「食事がしたい」などと考えます。

でも、女性の場合や奥手の男性などは、相手がアクションを起こすまで待ったりします。

これがうまくいかない場合もあります。

この「好き」だとか「会いたい」という欲求と、「想いを告げる」とか「食事に行く」という行為の間には、ズレがあります。思っても行動に起こさない場合です。

つまり、好きだからすぐ行動するとは限らないからです。


そこで、この欲求と行動の間に、「意志の力」が入るとどうなるでしょうか。意志の力とは、二人で会うつもりだ、とか、食事に誘うつもりだ、などです。

つまり、意図でもあり、行為、行動でもあります。

また、意志には選択が含まれます。

精神的成長のために実際に努力をするときは、「彼に決めた」とか「あの人を愛することを選んだ」と意志の力を働かせると、気分のままとか高揚感で「なんとなく」「成り行きで」付き合うことにはならないのです。


この、「なんとなく」「成り行きで」または、一目惚れして「恋に落ちる」という言葉があります。


著者は、恋することと愛は、同じではないといいます。


まず、恋に落ちるとか一目惚れなどは、一時的であり、蜜月期間が過ぎると、すぐに幻滅してしまうことが多いです。


これはなぜでしょうか?


私たちは孤独を抱え、恐ろしい外界から身を守ろうとしますが、それに伴う孤独を苦痛だと感じます。

そこで、ひとりでいなくて済むために、外の世界と溶け合おうとします。

これは、心理学用語でいう「逃避」ですが、これを助けるのが、「恋をすること」なのです。



「恋に落ちる」現象の本質は、「個人の自我境界の一部が突然崩壊して、自分のアイデンティティが他者のそれと溶け合うこと」と説明してます。

また、「突然自分が自分自身から解き放たれて、愛する人を目掛けて激しく流れ込み、自我境界が崩壊するとともに、孤独が劇的に終わりを告げる経験は、ほとんどの人にとって天にも昇る心地である。

いくつかの点で、恋愛は、「退行的」な行為である」といいます。


では、本当の愛はどうでしょうか?


本当の愛は、愛の感情の欠けている状況で…つまり、「愛している感じ」がないにもかかわらず、愛をもってふるまうときに、しばしば生じるといいます。


つまり、恋が終わってからが、本当の愛が試されるということになります。


このように、「恋に落ちる」ことは、多くの人が望みますが、実はそれは幻想であり勘違いであり、そのことによって、当人たちが成長することはほとんどなく自我の境界が部分的にもしくは一時的に崩壊した状態なのです。



それに対して、本当の愛は、たえず自分が広がっていく経験のことを言います。

広がっていくのは、自分の自我の境界を広げていくという意味です。


では、どうやって自我の境界を広げていけば良いのでしょうか?


自我の境界を広げる方法


それは、愛を通じて自らの限界を広げるのは、愛する人に向かいその成長を願って、いわば手を差し伸べることによって広がって行きます。

これは、余計なお節介ではなく、相手が本当に必要としていることを、適切に適度に与える姿勢です。


また、このような関わりを持つためには、ある程度、近づいていく必要があります。



これを、「カクセシス」といいます。

カクセシスとは、自己の境界を超えて自分の外にある対象にひきつけられ、のめりこみ、かかわりあう必要があることです。


これによって、対象や外界全体と結びつくことを、「神秘的結合」といいます。

この結合による「恍惚感」あるいは、「至福の感情」は、恋と比べてずっと穏やかでより安定した持続的なものであり、これが恋愛による絶頂体験などとは違うといいます。


このように、「恋に落ちる」と「本当の愛」は、本質的に全く違うものです。


その違いとして、恋の場合は、依存性を満たすことを、愛と勘違いしている人がとても多いです。


これは男女間だけでなく、親子の場合もとても多いです。子供にしがみつきながら「お前なしでは生きていけない」と叫ぶ人のなんと多いことか。


しかし、愛とは自由に選択するものです。

しがみついて寄生したり、自分の利己的な必要性から求めるものではないのです。


一人でも十分やっていける人が、一緒に生きることを選んだ場合に限って「二人は愛し合っている」と言えるのです。


このように、依存しないと生きていけないような人を、受動的依存的性格障害と言います。



これは、依存したい欲求が生活を支配し、生のありかたまでを決定してしまう状態の人です。

このような人は、愛されようとするのに忙しすぎて、愛するエネルギーが残っていません。


この人たちの性格を特徴づけるのは、中毒性です。

まさに、人間中毒であり、人に吸い付いて貪り尽くすのです。


このような依存性のつよい人が、誰かを求めたとしても、決して精神的成長はありえないのです。

むしろ、退行しているのです。


彼らは、「幸せ」をつよく願いはするものの、決して「成長」しようとは思っていないのです。

なぜなら、成長に伴う不幸や孤独、苦悩には耐えようとしないのです。


また、他者の精神的成長などには全く関心がなく、どちらかというと、精神的成長を邪魔する方です。



純粋な愛は、情動的というより意志的であり、本当に愛する人は「愛する決意」にもとづいて愛するのです。

こういう人は、愛の感情あるなしにかかわらず、愛することに真剣に関わっているのです。


また、愛の感情には限りはないものの、愛する能力には限界があります。

例えば、結婚している場合、自由に恋愛をすることはできません。

従って、愛の能力を集中し、愛の意志を向ける相手は選ばねばならないのです。

それは、真剣にかかわり、熟考した末の決断になります。



本当の愛が恋に落ちるのと違うのは、恋と違って愛は、常に「努力」をします。


自分自身を広げるとき、もう一歩踏み出し、安易な怠け癖や臆病なためらいを超えて「努力」をするのです。


自分を広げ、安易な怠け癖に逆らって動き出すことを、「仕事」といいます。


また、恐れをものともせず動き出すことは「勇気」と呼ばれます。


「愛の仕事」がとる主な形は、「関心」です。


人を愛するとき、われわれはその人に注意を向けます。

その人の成長に、関心を持ちます。


また、愛は、受け手が与え手となり、与え手が受け手となる相互的な現象です。


この最も顕著な例が、相手の話を聞くことです。


本当に聞くこと…心を他者に集中することは、常に愛の表れであります。

その本質的部分は、括弧づけの訓練であり、自分の偏見や枠組み、願望を一時的に放棄あるいは保留することにあります。


括弧づけの訓練とは、バランスを取るための訓練の一つのタイプで、一つは、自己を主張し安定させること、もう一つは、一時的に自己を諦めて、新しい要素を自己に取り入れる余地を作り、それによって新しい知識やより広い理解を得ることが目的で、この二つのバランスをとりながら相手の話を聞いたり、関心を向けることです。純粋に新しいものが姿を現し、事ものや人や出来事がその独自の存在を、心の中に根付かせるためには、自我の脱中心化が経験されなければならないのである。 
 

それによって可能な限り、話し手の世界を内側からその人の身になって理解するのです。


話し手と聞き手が一体になることは、事実上、自分自身の拡張拡大であり、新しい知識は常にここからくるのです。


それだけではなく、本当に聞くことは、括弧付けないし、自己の保留を意味するので、一時的に他者を完全に受容することになります。


こうなると、話し手と聞き手は、お互いをいっそう理解し合うようになり、愛のデュエットが再び始まります。


このような行為は、相当なエネルギーがいるので、お互いの成長のために自分自身を広げようとする「意志」が不可欠なのです。



愛を失う可能性


愛の行為は、「怠惰」という慣性(仕事)あるいは、恐れによって生じた抵抗(勇気)に逆らって動き出すことが必要になります。


こうして、自分自身を広げるとき、自己はいわば新しい見知らぬ領域に入って行きます。

新しく違った自己になるのです。

つまり、自分が変わるのです。


変化することは恐ろしいことです。でも、変化せざるをえないとすれば、恐れを避けては通れないのです。


ここで止まってしまう人は、次こそはこの「恐れ」を乗り越えてください。


また、「勇気」とは恐れのないことでないのです。

恐れがあるにもかかわらず行動することであり、恐れからくる抵抗に抗して未知ないし未来へと動き出すことです。


このように、精神的成長にある段階では、絶えず勇気が必要であり危険が伴うのです。



自立にともなう危険性


著者によると、そもそも人生は危険なものであり、さらに、愛をもって人生を生きれば生きるほど、多くの危険を冒すことになるのです。


一生の間で冒す危険の中で、最大のものは、「成長する危険」です。


「成長する」とは、子どもからおとなへと踏み出す行為のことです。


「人生における唯一の真の安定は、不安定を享受することにある」



対決する危険性



愛にまつわる究極の最大の危険は、謙虚さを失うことなく力を行使することです。


つまり、愛しながらも対決することです。


なぜ、対決がそんなに難しいのか?


「私は正しい、あなたが間違っている。だからあなたが変わる必要がある」というのは簡単です。しかも、日常的に使われています。


でも、本当に愛する人は、このようなことを簡単には言えない人なのです。


なぜなら、このようなことが通ってしまうと、人間は傲慢になっていくことが簡単に想像できるからです。


ただ、時として本人よりも他人のほうが「何がその人のためになるか」がわかる場合があります。


その場合、賢明な方が、相手の精神的成長を親身に考えた上で、実際に直面させる義務があるのです。


しかし、相手を尊重したいという気持ちとの間で、葛藤があります。


この葛藤には、骨身を削るような自省によってしか解消されないといいます。


何度も「これは相手にとって必要なことか?」と問いかけながら対決していくことです。


決して、支配したいなどの理由から、対決することではありません。


また、対決を恐れて、必要な時でさえ対決を避けるのは、愛することができないということの証明でもあります。



愛とは訓練される


自律とは、行動に移すと「愛」となります。

純粋に愛する人は、誰にでも自律的に振る舞い、純粋な愛情関係はすべて「訓練」された関係と言えます。


また、愛されても精神的に成長できない人を愛することは、エネルギーの浪費となります。


純粋の愛は貴重だからこそ、純粋に愛する力のある人は、自律を通して、できるだけ実り多いところに愛を注がなければならないことを承知しています。


だから、ゲームのような関係や依存関係などに、多くの時間を使うことは避けるようにしているのです。

あなたは、共依存などにハマっていませんか?


愛とは孤独な旅


純粋の愛の最大の特徴は、自分と相手の区別が常に保たれて失われないことです。


人生の究極の目標が個人の精神的成長であるならば、一人ぼっちでしか登れない頂上を目指す孤独な旅であることに変わりがないのです。


ただ、その旅を支えるのは、愛する人であることも確かです。


相手の成長のために払う「犠牲」は、結果的に自らの成長につながります。



いかがでしょうか?

「恋に落ちる」のは、衝撃的で衝動的で憧れる人も多いですが、残念ながら誰も成長することがなく、あっけなく短命に終わってしまいます。

最近の男女がすぐに別れを選ぶのは、「恋に落ちる」時の絶頂とすぐに訪れる「幻滅」の繰り返しだからだと著者は言います。

確かに、本当の愛は、もっと冷静で意志の力を働かせて、時には耐えたり対決したりして、一緒に成長するものなのだと思います。

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