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2021年8月28日土曜日

「言葉尻をとらえる」と「言葉の意味を理解する」の違い

 



こちらの動画では、「なぜか人と親密になれない」「親しくなりそうになったら逃げたくなる」「一人が良い」などと思っている方の原因を考えてみました。

きっとこのような方は、性格傾向として「回避型パーソナリティー」と考えられます。

回避型とは、その名の通り、人や環境から常に「逃げたい」と思っている人です。

当たり前ですが、逃げたいからにはそれなりの理由があります。

今回、参考にさせていただいた岡田尊司先生の「回避性愛着障害」では、主に1歳半くらいまでの母親との関係が大きく影響しているという話をしました。



多くの場合、ネグレクト(虐待や無視)などの、かなり危険な目にあった人が回避型には多いようです。

つまり、ネグレクトによって心が固まって「もう誰も信じない」となってしまうのです。

しかし、それ以外にも過干渉、過保護、過剰な支配なども含まれます。

先生によれば、「強制収容所体験」(のような)によって、トラウマとなっているようです。

回避型は、もともと男性に多いようです。今では女性も多いですが、このようなタイプがパートナーでその扱いに悩む方も多いようです。

「愛してくれない」「冷たい」などです。

このように、パートナーが回避型の場合は、このようなことを注意してほしいと言いました。

  1. 1歳くらいまでの傷が原因と知る(あなたに対するものではない)
  2. 過去の危険基地でなく安全基地を作ること
  3. 防衛的な態度を否定しない(あなたに対するものではない)
  4. いつか安全基地を守ってくれるはず
  5. 時間はかかる

このような内容に対して、旦那さんが回避型で悩んでおられた視聴者さんから、このようなコメントをいただきました。

ありがとうございました。夫が完全にコレです。1歳頃までの不適切な養育環境が原因とは、夫に対する哀れみと義父母に対する怒りが!(元々私は義父母の何気ない言動に対して嫌悪し完全に距離を置いてましたが、コレが原因でもあるな、と)
彼に対して、私は安全基地だよ〜って繰り返し伝え、スキンシップしようと図るのですが、回避(拒否)されます。それは安定型の私だって傷付く〜。でも彼の中の、1歳の可愛い赤ちゃんの頃の彼が愛されたくて愛してくれなくて泣いているのかと思うと、私の傷付きなんて糞だと。彼を丸ごと抱きしめてあげたい。彼から愛されてる自信は沢山はないけど、彼からの拒否は表面的なもの!と、彼を信じて、彼の心の闇を私が溶かしてあげたいです。


時間はかかると思いますし、何度も試すようなこともあると思いますが、ぜひ一緒に安全基地を作って、乗り越えてほしいと思います。

ところで、この方のように、一歳の頃の様子を想像しながら会話をしたり、向き合うことは「意味への理解」と言って、非常に重要なことです。

言葉の裏には、いろんな傷とか解消しきれてない問題とかがある場合が、ほとんどだからです。


これは、言葉で表現しなくても、相手には伝わります。

そして、何よりもの癒しになると思います。回避型にはこのような経験はほとんどないに等しいはずです。



その反対が、「言葉尻をとらえる 」です。



「あの人にああ言われた。ひどくないです?」など。

これは、目の前の言葉に傷ついたりイライラしていることになります。

ほとんどの人がこれですが、これだけで相手を理解しようとすると、大切なことを見誤る恐れがあります。


「意味への理解」とは、その人の気分はどうだったのか?

その人がそう思う背景には、何があったのか?

頑なになっているのは、今のことに対するだけでなく、過去に何かがあったのか?

このような視点を持ちながら、相手を全体として眺めることは重要です。


もちろん、知らない人にまで意味への理解をしたらヘトヘトに疲れてしまいます。

ただ、大切な人にはこのような意味への理解、意味への応答は、重要です。

ぜひ、自分はどっちなのか(言葉尻か、意味への理解か)を冷静に分析して、少しづつでも意味への理解を取り入れたら、きっと相手との信頼関係は今よりも改善していくと思います。



2021年8月24日火曜日

子供が死を選ぶ理由


 最近、中学生がいじめにあっていたことで、公園で亡くなったと言うニュースがありました。

このようなケースは、ニュースにならないものがほとんで、実は身近なところでも頻繁に起きています。

学校関係者などもなるべくニュースにしたくないのが本音でしょう。

このような重大なことが、放置されているのは非常に違和感があります。

また、子供によっては自殺まで行かない人もいます。

この違いは何でしょうか?

今回は、吉本隆明氏の「ひきこもれ」からその答えを探します。


以下、抜粋します。

子どもはなぜ、死を選ぶのか


子どもがいじめられて自殺したような場合、それは親が自殺したと言うのと同じです。
つまり、親の代わりに子どもが自殺したのだと思えば、それが一番真実に近いのです。

親が子どもに「命は大切だぞ。いくらいじめられても、死んだりするものじゃないよ」などと、いくら言っても無効です。なぜなら、子どもの自殺は、親の代理死なのですから。

ひどいいじめを受けたとしても、死なない子は死にません。

自殺する子どもは、育ってきた過程の中で、傷つけられてきた無意識の記憶があるのだと思います。
子どもが受ける無意識の傷とは、前にも述べたように、子どもを育てる親自身が傷ついていたと言うことです。

 

傷ついた親に育てられた人は、死を選びやすいのです。



親から子への自殺願望の転移


「もう自殺するよりほかにない」と言うほどの体験を、子どもが単独でするとは考えにくいとぼくは思います。

今の子どもは、加減というものがわからなくなっているから、例えば鉄の棒でひっぱたいて相手を死なせてしまったというようなことは、起こりえないとは言えないでしょう。
しかし、精神の体験としては、死を選ぶほどの体験を、子どもがみずからしているわけがありません。

結局は、親の真似なのです。

心の奥のほうで、無意識のうちに「死にたい」と思っているけれども実行には移さない親がいる。その死への傾斜をこれまた無意識のうちに感じ取った子どもが、何かのきっかけで実行に移してしまうのです。

臨床心理学の先生がこんなことを話していました。

あるひとのカウンセリングをして、その帰りに駅で電車を待っていた。ホームに人が入ってくると、なぜだか知らないけれど、飛び込みたくて仕方が無くなるそうです。

自分は自殺したいという気持ちはまったくないのに、一体どうしたんだろうと思ってよくよく考えてみると、その日カウンセリングをした患者さんが、強い自殺願望をもっていた。その自殺願望が転移したとしか考えられないと言ってました。

大人同士で、赤の他人でさえそうした影響を受けるのです。
親の心の傷を子どもが自分のものとしてしまったり、親の死にたい気持ちを自分が現実化してしまうことは、十分にありえると思います。

自分の子どもに自殺された親たちが、同じ境遇の人同士で集まって会を作り、子どもの自殺を防ぐための活動を行なっているという話を聞きます。
そうした親たちは、何か考え違いをしているという気がしてなりません。
残酷なようですが「あなたの子どもは、他でもない、あなたの代わりに死んだのではないですか」と言いたくなるのです。
世間を啓蒙して回る前に、自分自身を見つめたほうが早いのではないか、そう思うのです。



ということです。

これは、本当に重要な視点だと思います。

同じように、子どもの自殺の後に、親などが手記などを出すことに対しても、違和感を覚えています。

多くの場合、いじめっ子がいかに残忍であったかが書いてあるのですが、もし家が安全な場所なら、学校などやめたら良いのであって、死にはしないと思うのです。

そこには一切触れることなく終わることに、釈然としないものがあります。

もちろん、その人たちが「罪を感じるべき」ということではなく、手記を書くことよりも、もう少し死を選んだ子どもの気持ちに立ってやることが重要なような気がします。

また、このような安全基地を作れない親なども、当然ですが存在します。

それは、仕方のないことです。

ただ、それがわかった上で、世間体のために子どもをその場に縛りつけるようなことは考えずに、子どもが思うようにさせてやる配慮は必要だと思います。

「子どもの思うように」というのは、「その場から逃げたいと思っている?」とか、「生き生きしてないのは、私のことを嫌っているのではないか?」という子どもの正直な気持ちを汲み取ろうとすることです。

そうすれば、例えば面倒見の良いおじいちゃんの家で育ててもらうとか、引越しをして同居するとか、親自身が学ぶべきことを学ぶために、何かを始めることなどもできます。

見ないふりをして通り過ぎてしまうことが、一番子どもには「毒」です。

なぜなら、「自分には味方はいない。SOSを求めても誰も手を差し伸べてくれない。」という結論は何を意図するでしょうか。

これは、大人には当たり前のことであっても、一人で生きていけない子供には「死」を意味するからです。

もし、子どもに愛情を感じなくても、せめて義務教育までは、生き物を傷つけるようなことは極力避けていただきたいし、子どもを自分の欲求の代行にさせようなどという邪心は、一切禁止すべきだと思います。



2021年8月21日土曜日

独裁者の原因は「光の教育」の失敗にあった?

 


アリス・ミラー の思想から「闇教育」の恐ろしさ、ただの虐待や八つ当たりを「しつけ」と言っている多くの人たちに対する疑問がわきあがります。

特にこちらの書籍はオススメです。

前回、ヒトラーの生い立ちについての動画を出したところ、現在の中国のトップであるキンペーさんはどうなの?というご質問をもらいました。

そこで、こちらのブログでご紹介したいと思います。

でも、もちろん過去の人ではないので、気持ちの中まではわかりません。

その上でお読みください。

ところで、まさしく「習近平の正体」という映画を作ろうとしている動きがあるようです。

現在予定で、予算がないのでまずは資金集めのようですが……


キンペー氏の生い立ち


私が調べた(ウィキペディア)ところ、キンペー氏の父親は、いわゆる毛沢東の下で働く共産党員のお偉いさんで、幼少期(9歳まで)は非常に恵まれた生活を送っていたそうです。

キンペー氏の父親は、習仲勲(しゅう ちゅうくん)といって、意外にもウィグル人などに対する理解などがあり、私の印象だけになりますが、仲間愛のようなものが強い人ではないかと感じました。

しかし、もしかするとこのような面が、毛沢東 もしくは党の方向性と少し違っていたのかもしれません。

キンペー氏が9歳の頃に、父親は党や毛沢東から批判を受けて、追放されてしまいます。

キンペー少年は、毛沢東と父親の両方を崇拝していたと思われ、その片方が片方を追放するという難しい局面を、小学生の低学年で経験したようです。

これは、精神的にかなりつらかったかもしれません。普通なら分裂が起きそうです。

幼稚園、小学校とエリート専門の寮のある学校に通っていた少年ですが、なんとこの父親の追放などから始まった文化大革命によって、彼の人生も大きく変化をしていきます。

それまでは、かなり裕福であったのに、突如、父親はいわゆる「工場」で強制労働のようなところでの生活を強いられます。

なんと16年もの間、働き続けたそうです。

16年というのは、毛沢東が亡くなるまで……またその2年後だったそうです。

つまり、キンペー氏と父親が一緒に生活をしたのは、幼稚園に入る前までとなるようです。

父親は工場で強制労働、そしてキンペー少年は、裕福な暮らしから一変、農村で働くといういわゆる「下放時代」を経験します。

その時は、洞窟に住んでいたそうです。

その後、共産党員となって、復活した父親の後ろ盾もあって、トップにまで上り詰めたようですが、大きく思想が転換したのは、あの「天安門事件」だったと先述の監督は言ってます。

この辺の詳しいところはわかりませんし、彼の心の中は誰にもわからないかもしれません。


毛沢東もまた……


話は戻りますが、毛沢東もまた(ヒトラーと同じく)父親の虐待に苦しんだことが有名です。

これは、子供向けの伝記の中にも記述してあります。

ただ、毛沢東の母親は非常に強い心を持っていたようで、貧困に苦しむ人にせっせと奉仕をしていたようです。

その影響もあって、毛沢東も同じように、自分の畑よりも他の人の家の畑を手伝うので、父親に怒られたり、言い争ったりしていたそうです。

このような正義感や強い精神力のおかげで、その国のトップにまで上り詰めたのでしょうか。

しかし、トップになった毛沢東がなぜか突然方向転換をして、極端な社会主義に走り出したそうです。

そのことで、キンペー氏の父親や反対派などとのやりとりがあったようです。

私の想像では「ちょっと待ってください。やりすぎでは?」という感じでしょうか。

まぁその結果、毛沢東は反対派を排除し、さらに突き進みます。

……これって、今のキンペー氏のやりかたのような気がします。




グレートファーザー


こうして書いていくと、毛沢東、キンペー氏は、人生のどこかで「急転換」した場所があったようです。

それに対して、キンペー氏の父親は、終始一貫していたようにも思えます。

もしかすると、完全に想像ですが、キンペー氏の父親は「光の教育」つまり闇教育の反対をしてきたのではないか?という結論なのです。(私なりの)

ただ、毛沢東やキンペー氏にとって、キンペー氏の父親のような存在は、本当はとても貴重ではあるけど、何かが欠けている人にとっては、とても怖い存在なのではないかと感じました。

例えば、愛された経験がない人に「愛って大事だよ」って言われると感じる恐怖感のようなイメージです。

「もうやめて!」「わかんない!」と言いたくなるような衝動……つまり反射的な反応です。

これは、キンペー氏が低学年の時に経験した、父親の追放劇によって、これまで光の教育で育った愛が崩れ落ちて、それによって分裂して「愛」が閉じてしまったようにも感じます。


また、グレートファーザーという言葉が頭に浮かんできました。

辞書によると

グレートファザー、父なるものの元型。 超自然的な力を備えたマナ人格と呼ばれるもので、成長と活力の根源的なシンボルとして象徴されます。 導師、預言者、聖職者、医者や魔術師、先生などのように権威ある人物として夢や幻像に現れます。


「父なるものは素晴らしい。でも、その教えを守ると恐ろしい目にあう」このような学びを得たなら、まさにグレートファーザーと逆のことを考え、やることが正義のように思えるのかも……と思いました。

そのきっかけが、父親の追放劇であり、天安門事件だったのでしょうか。

2021年8月13日金曜日

「怒りの矛先」が重要ーヒトラーの受けた「闇教育」ー



 この動画では、ヒトラーの生育歴などを探ってみました。


やっぱりというか、ヒトラーに限らず「怒り」などの感情に囚われている人は、わかりやすいです。

表情、言動、などが「怒り」と「憎しみ」に支配されているからです。



ヒトラーの考えた「大衆心理」


特に彼らのように、カリスマ性があって、統率力がある人は多くの人に影響を与え、巻き添えを作ってしまいます。

ヒトラーは大衆心理についてこう述べています。


大衆心理はなべて中途半端なもの、弱いものを嫌う。

女は抽象理性の声に従わず、定識なくフラフラと、自分に欠けている力を具現しているものに従って物を見、判断するものであり、したがってまた、弱者を自分が支配するより、自分を支配する強い者の方を選ぶ。

そのような女と同じく大衆というものも自分たちに頭を下げるものよりは支配者を好むし、他の考え方を許さぬ教えの方が、進歩的自由を与えられたりするよりもずっと彼らの内面生活に落ち着きをもたらす。

自由主義思想など与えられても大衆はそれをどうしたらいいかわからず、しばしば自分たちが放り出されてしまったように感じるのだ。

自分たちの精神が恥知らずな力づくのやり方で支配されていることなど大衆はなかなか気づかぬものだし、自分たちの人間としての自由さえ腹立たしいやり方で踏みにじられているというのに、それにも気づかない。

その教えそのものの中身が狂っているなどとはまったく夢にも思わないのだ。

大衆が見るのはその教えははっきりした目標があること、そしてその教えが自己を表明する際にほとばしり出てくる向こうみずの力と情容赦のなさだけなのであって、大衆は結局のところ、いつでもそのようなものに参ってしまうのだ。

J・フェスト

ここでは、最初に女性に対する軽蔑っぽい記述がありますが、きっとこれは自分の母親に感じた意思のなさや、ただ従順さだけで生きているという批判が込められているように感じます。


また、ヒトラーについて書いた J・フェストの記述の中にこのようなものがあります。


自分自身の人格を隠蔽し、ごまかそうとするのがヒトラーの生涯の根本目標であった。


もし、自分を信頼しているなら、全てを見られても堂々としていられるはずです。

このような面からも、内心では子供時代の無力さを、ずっと引きずっているようにも感じます。

そして、政治の場面で、無意識に味わわされたドラマを、今度は逆の立場に立って上演してみせたということでしょう。



ヒトラーの支持者とは


そして、このような独裁者には多くの支持者がいました。

もちろん、批判している人もいたでしょう。

このような独裁者の支持者は、ヒトラーと同じ精神状態であったと思われます。

つまり、自分たちが生まれてからずっと抑圧してきた「憎しみ」の出口をずっと探し続けてきた人たちです。

そして、「憎しみを持つリーダー」が登場し、憎しみの対象を作ってくれたことで、支持者たちは堂々と合法的に「憎しみを味わい尽くす」ことに成功するのです。

そうすることで、本来の憎しみの対象である両親などに対しては、理想化を続けたままでいられます。

でも、本来の憎しみの対象ではないので、それで満足することはなく、「これでもか」と、どんどんエスカレートしていきます。

つまり、魂の殺人で言っている「闇教育」とは、まさに身体的・精神的「虐待」をしながらも、虐待者を尊敬させるという「独裁者」になるための教えだったように思います。



まとめ


「憎しみ」は、我慢すればするほど後になって雪だるま式に増えていく、ということと、それを別の対象に向けたところで満足することはなく、どんどんエスカレートしていくこと。また、動画でも言いましたが、最後にはその「憎しみ」の矛先は、自分に向かい自分を破壊する行為に及ぶのではないかと思いました。

ヒトラーの最期は、自殺でした。

これが、必死で「憎しみ」に耐えてきた人間の末路かと思うと、悲しいものがあります。

必死で父親の背中を追っているようにも見えます。

こうならないためにも、自分に起きている感情を信じて疑わず、支配者などの脅しには屈せずで生きることだと思いました。

2021年8月9日月曜日

大人になっても残っている「見捨てられ感」「孤独感」の理由

 


今回は、アリスミラー の「才能ある子のドラマ」から動画では取り上げなかった部分を、こちらでご紹介します。

⬇️アリスミラー の別の書籍です

全てが重要なので、「哀れな恵まれた子ども」と言う小タイトルの部分を引用させていただきます。



われわれが子供の頃にさらされた、したがって内面心理的には成人してもさらされていることになる孤独感、見捨てられた感じの度合と言うものを捉えることが、そもそもわれわれにはできるものなのかどうか、しばしば私としては自らに問わざるをえない。

私がここで言っているのは、何も外面的に見捨てられること、表面的な両親との別離のことではない。

無論、それはそれで心的外傷として影響を与えるかもしれないが、さらにまた、明らかに大事にされなかったり、それどころかほっぽらかしだったりで、大きくなった子どものことも、私の念頭にはない。

この子たちはそのことをいつも知っていて、少なくともその真実とともに大きくなったのである。

ところが、非常にしばしば洗練された、努力を惜しまぬ両親を持っていて、その両親に育てられて、しかも重いうつ病に悩んでいると言うナルシシズム障害者が多数いる。


 

この人たちは、自分の子どもの頃については、幸せな大事にされた幼少時代だと言うイメージを抱いて成長したのだが、そのイメージを抱いたまま分析治療を受けにやって来る。

このような患者は、多くの可能性を、いやそれのみか才能も有していて、それを発揮しているのであり、その天分や業績のゆえにしばしば賞賛の的となってきたのである。

この人たちは、両親の自慢の種でもあり、強い、確固たる自意識を持っているに違いないと言うことになろう。が、実際はまさしくその逆なのである。

この人たちは手に染めるものを、何でも実に見事にやってのける。

人に褒められうらやましがられる。

ここ一番と言うところでは、必ずうまくいく。だが、それら一切が何の役にも立たない。その後ろにはうつ病が待ち構えている。

虚しいと言う感じ、自己疎外感、生存が無意味だと言う感情が待ち構えている。

誇大妄想という麻薬がきれてしまうやいなや、あるいはその人たちが「トップの座」をすべり落ちるやいなや、あるいはスーパースターの自信を喪失するやいなや、あるいは何か他の理想像が出現して自分は役に立たないという感じを不意に持つような場合がそうなのである。

そうなると、しばしば不安や重い罪悪感や、羞恥感に苦しめられるようになる。

このような才能ある人たちに見受けられる、かかる深刻なナルシシズム障害の原因は、何なのであろうか。


 

この人たちの話に耳を傾けると、すでに最初の話しあいですぐに、物分かりの良いいい両親を持っていたことがわかる。

少なくとも両親の一方はそうだったのである。そして、この人たちがかつて自分たちを取り巻く周囲の世界から理解されることがなかったとすれば、それはその人たちに言わせると、「自分たちのせいであった」ということになる。

すなわち自分たちがまともに自己を表明することができなかったせいだというわけである。

この人たちが自分の最初の追憶を持ち出す場合、昔の子供のころの自分に対する共感というものを示さない。

この事実は、これらの患者たちが内省に対して並外れた能力を有しているばかりか、他人に対しての感情移入が優れているだけに、それだけ一層目立つのである。

この人たちの幼少時代の感情世界に対する関係を、特徴付けているのは、敬意の欠如、締め付け、操作、仕事をせよという精神的圧迫である。(このような扱いを受けて育った)

そこにはしばしば軽蔑と皮肉が現れることがあり、これは嘲笑と冷笑へといたることさえある。

さらに一般に見受けられるのに、子供としての自分自身の運命を真に、情緒的に理解したり、受け止めようとすることの完全な欠落がある。


あるいはまた、仕事への強迫の彼岸にある自分自身の本当の欲求については、まったく何もわからないという点がある。

根源的なドラマの内化が完璧に成功した結果、良き幼児期という錯覚が無傷でいられることができるわけである。

このような人たちの心的風土はこのようになる。

  1. 自分があるがままのものとして、また自分の活動の中心として見られ、注目され、受け止められることこそ、子供の本来の欲求に他ならない。本能的願望と違ってこれは、同じように正当性を有しているとはいえ、ナルシシズム的欲求なのであり、この欲求を充足することは健全な自己感情を形成するためには、どうしても不可欠なのである。
  2. 「あるがままのもの」とは、感情、感覚、それらの表現であり、これはすでに乳児の時からそなわっているのである。
  3. 子供の感情に対する敬意と寛容の雰囲気があれば、子供は分離段階において母親との共生を諦め、固体化と自律への歩みを完成する。
  4. 健全なナルシシズムのこのような諸前提が可能であるためには、この子供たちの両親も同じように、このような風土の中で成長していなければならないだろう。
  5. 子供のころにこのような風土を獲得しなかった両親は、ナルシシズム的欲求を持つこととなる。すなわち、このような両親はその生涯にわたって自分たちのそのまた両親がしかるべき時に自分たちに与えてくれることができなかったものを探し求める。つまり、十全に自分たちに同意し、十全に自分たちを理解し、受け止めてくれるような存在を、自分たちを賞賛して、つき従ってくれるような存在を求めてやまない。
  6. かかる探求は、むろん十二分にうまくゆくわけにはいかぬ。なぜなら、二度と戻らぬ過去の局面に、すなわち自己形成の最初期にそれは関係しているからである。
  7. しかし、叶えられないでー拒まれたがゆえにー無意識化された欲求は、何としてもこの欲求を代わりの方法ででも充足したいという「強迫のとりこ」になってしまう。
  8. それには「自分の子」が一番うってつけである。新生児は、良かれ悪しかれ自分の両親が頼りである。自分の生存が両親の援助を手に入れることに依存しているので、両親の援助を失わないためには何でもする。人生初日から、自分にできることなら何でもしようとするであろう。それはちょうど、小さな植物が生き延びるために太陽の方向を向くのと同じである。
ここまで私は、多少ともすでに知られた事実という基盤の上を離れなかった。

以下に述べる考えは、私が行った分析治療などに基づくもので、きわめて注目すべき幼少時代の運命が見出される。


  1. 母親が、結局のところ情緒不安定な母親であった。このような母親は、自分のナルシシズム的バランスをとるために、自分の子供のある一定の態度なり、一定の生き方をあてにしたのであった。このような不安定は、おそらく子供や周囲に対しては、権威主義的な、そういう全面的なファサードに覆われていて、隠されたままでありえたのであろう。
  2. 加えて、子供の持つ驚くべきほどの能力があった。つまり、母親もしくは両親のかかる欲求を直感的に、ということは無意識のうちに感じ取ってこれに答えようとする能力であり、つまり、自分に無意識のうちに割り当てられた機能を引き受けようとする能力である。
  3. この機能が子供に「愛情」を保証してくれた。つまりその愛情とは、ここではそれは両親によるナルシシズム的備給である。子供は自分が必要とされたことを感じたわけで、それこそ彼の人生に生存保証を与えたのである。
このような能力は、磨き上げられ、非の打ち所がないものとなる。 

このような子供たちは、自分の母親の母親(頼られ手、慰め役、助言者、支え)になるばかりではない。自分の弟妹の世話係も一手に引き受ける。
とどのつまりは、他者の欲求の無意識な信号に対する特殊な感応装置とでもいうべきものを作り上げてしまう。

 

このような洗練された適応装置こそ、その子が幼児期に人生を生き延びる手助けとなるが、その適応装置の形成と仕上げのなかに、ナルシシズム障害の根本原因もひそんでいるのである。




ということです。強調部分は私が勝手につけさせてもらいました。

非常に長文になりましたが、アリスミラー の息遣いをそのまま伝えた方が、きっと伝わると思い引用させていただきました。

ここで使われている「ナルシシズム的欲求」とは、自己愛を満たすための欲求、というような意味です。それは、実は本当の自信ではないけど、子供の頃の(あまり根拠のない自信)万能感というのは、自信を育てる上ではとても大事で、それが満たされない子供は、大人になっても承認や保証をずっと追い求めるということです。

ナルシシズム的備給とは、本来のその子供を受け入れるような愛情表現ではなく、親のナルシシズムを満たすための行為に関して「よくやった」という褒めの言葉などを与えることです。

だから、こんな褒め言葉は、ロボットに対して独り言を言っているようなもので、才能のある子供は、その意図さえも感じ取って、より大きな虚無感に見舞われるのだと思います。

それでも、それ以外に愛情がないのだから、仕方なく親であるけど子供のままの「わがままな欲求」をひたすら叶えては、意味のないことだとため息をついているのだと思います。




2021年8月6日金曜日

闇教育で行われた教えとは

闇教育とは、昔の教育学そのものです。

つまり、先生などがお手本にしている教育書そのものが、闇教育を推奨するような内容です。


日本語訳などが少ないのですが、アリス・ミラー氏はこのような闇教育が伝えられている書籍や論文を非常にいっぱい引用されています。



ここでは、動画でお伝えしきれなかった引用を追加したいと思います。

こちらはシュレーバー博士が教育者への忠告として書いたものです。(1858年)

精神的ー教育的な基本方針を固めるための最初の試みとして、理由もないのに泣いたりして自己主張をする幼い者の気ままを観察しなさい。

別に何も足りないものはなく、窮屈だとか痛い思いをしている訳でもなく、病気でもないということになったら、こうやって泣き叫んでいるのは単なる気ままであり、むら気のなせる技なのであって、わがままの最初の現れなどだということがはっきりする。

 

こうなったらもはや始めのようにじっと待ったりしてはならないので、何らかの積極的な行動に出る必要がある。

 

速やかに子供の気を別のものに向けさせたり、厳しく言って聞かせたり、身振りで脅したり、ベッドを叩いたりして……、そうすることでは効き目がない場合には、ーーー

もちろんそれほど強いことはできないにしても、赤ん坊が泣くのをやめるかもしくは眠り込むまで繰り返し、休むことなく、身体に感じる形で警告を発し続けるのが良い……

このような手段は一回ないしせいぜい二回も用いれば充分なので、そのあとは間違いなく子供はあなたの思うままになる。

 

あなたの視線一つ、言葉一つ、ほんのわずかな叱責の身振り一つで子供を思うままに動かせるようになるのだ。

 

忘れてはならない、こうすることが子ども自身にも一番良いことなのである。

 

泣き叫んでばかりいては落ち着いた順調な成長は望むべくもないが、今や赤ん坊は泣き叫ぶことはなくなったわけであるし、しかもそれと同時に赤ん坊のうちに潜んでいるやっかいな強情も追い出されたのであるから、こうしなければこのやっかいものは、あっという間に根を張り、年とともにうち断ちがたい生命の敵となって生い茂ることになる。


これに対してアリスミラーは、このように感想を述べています。

シュレーバー博士は、自分が目の敵にして子どもたちの中から追い出そうとしているのが、本当は自分自身の衝動の反映なのだということに気が付いていません。彼は、自分のやっていることは、ひたすら子供のためなのだと信じて疑わないのです。


シュレーバー博士は、子供が強くなって主張して、彼を見下したりすることを恐れています。それは、このかたがまだ子供の感情のままで止まっているからだと思います。


そして、実際の子供が成長しないように、弱い子供のままにしておくことで、自分を守ろうとしています。


このような利己的で目の前のことしか考えない思想が、「教育」となって世の中に浸透していったのです。

この時代(1858年当時)は、かなりあけっぴろげに大人の持つ課題を子供に押し付け、もしくは復讐の矛先を子供に向けるようなことを指示してます。

特に、体を傷つけるような虐待を勧めている内容が多いです。

しかし、時代が移り変わることで(それでも教育の進歩は遅いですが)徐々に、根本の思想はそう変わらないけど、(批判されないように)うまく隠すという技を覚え出します。

そして、叩いたりする虐待というよりも、真綿で首を絞めるようなモラハラのようなことを、教育だといってその方法を細かく説明してます。

でも、いくら時代が新しくなっても、子供の持つ生き生きとした感情や、「違う」と主張するような独自の個性や能力を、嫌う大人は変わらず大勢いるようで、「個性的な子供の芽を早くにとってしまおう」という暗黙の目的が、今でもあるように思います。

きっとそれも間違いなく、そう考える人たちの「課題」なのですが、それを必死で子供に置き換えているのです。

その善意という狂気の恐ろしいさなのです……



2021年8月4日水曜日

人生に意味はあるのか?いろんな視点からの考察

 


動画では、人生の意味を考える上で、グレートハンガー、リトルハンガーという説明を使わせていただきました。

ハンガーだからお腹が空いているという意味ですが、グレートハンガーは生きる意味を欲している人で、リトルハンガーは食料とかお金などの現実的なモノに飢えている、もしくは欲望が強い人のことです。

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⬆️こちらの映画で使われた例えです。

生きる意味を問うというのは、避ける人もいるし、逆に中毒のようになってしまう人もいます。

どちらが良い悪いではなく、そういう人種、タイプだとわかれば、同じようなタイプとは話があうはずなので、無理に合わせる必要がなくなるということです。

そして、こちらのブログでは、グレートハンガーがどうやって生きる意味を生み出したら良いかを考えます。

著名人とか宗教などのさまざまな視点から考えていきます。

こちらは、諸富祥彦氏の「人生に意味があるのか」を参考にしてます。


人生の目的


まずは、作家の五木寛之氏の「人生の目的」から抜粋します。



人生に決められた目的はない、と私は思う。
しかし、目的のない人生は寂しい。寂しいだけでなく、虚しい。

人生の目的は『自分の人生の目的』を探すことである。
自分ひとりの目的、世界中の誰とも違う自分だけの『生きる意味』を見出すことである。
変な言い方だが、『自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である』と言ってもいい。私はそう思う。
そのためには、いき続けなくてはならない。生き続けていてこそ、目的も明らかになるのである。
『われあり ゆえにわれ求む』というのが私の立場だ

また、このようにも言ってます。

人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものなのだろう。
それが嫌だと思うなら、もうひとつ『自分でつくる』という道もある。
自分だけの人生の目的をつくりだす。それは、ひとつの物語をつくるということだ。
自分で物語を作り、それを信じて生きる。

しかし、これはなかなかむずかしいことである。
そこで自分で作った物語ではなく、共感できる人びとがつくった物語を『信じる』という道もある。

【悟り】という物語。

【来世】という物語。

【浄土】という物語。

【再生】という物語。

【輪廻】という物語。

それぞれ偉大な物語だ。
人が全身で信じた物語は、真実となる。

このように、哲学とか宗教などを信じてやっていくのも、大きな助けになると思います。

こういうと盲信してしまうことを恐れる人もいますが、盲信と信じるとは全く意味が違うと思います。

盲信というのは、中毒のように依存して「お決まりの儀式さえ守れば幸せになれる」というような、思考停止の状態だと思ってます。

これは、信じるものが中心になってます。

あくまでも自分が中心でそれを支えるのが、哲学とか宗教だと私は思います。



哲学的「生きる意味」


また、渋谷治美さんの考えは、「人は根拠なく生まれ、意義なく死んでいく」ということです。

このような考えをニヒリズムと呼びます。





同じようにニーチェもニヒリズムです(上のイラストはニーチェの似顔絵です)。

そもそも生きることにも意味がない、それを追い求めるのが人間の弱さなのだ、というような感じです。

流石に哲学者といった感じです。

では、意味のない人生をどうやったら受け止めることができるのでしょうか。

ニーチェはこのように言います。

たった一度もでもいい、人生の中で心の底から震えるような「至福の時間」を味わうことができれば、例え一切が無意味なくり返しでしかなかったとしても、私たちはそのすべてを肯定できるはずだ。

ということです。

こうなると「なるほど……」と思えますが、「じゃあ至福の時間って何?」となりそうです。

では、ニーチェにとっての至福の時間とは、何だったのでしょうか?

ニーチェについて書いた「ニーチェ入門」の中で、竹田氏はある女性との恋愛をとりあげています。

ニヒリズムが恋愛?と思ったかもしれませんが、この恋愛がうまくいったという話はなく、始まってもなかったようです。
でも、ただ一度「長い散歩をした」ということが至福の時間だったようです。

ここで「長い散歩が至福の時間?」と思ったなら、もしかするとあなたは「リトルハンガー」かもしれません。

豪華な思い出とか、しっかりとした契約などは、現実の欲望ではないでしょうか。

もしかすると、他人から見た幸せの形かもしれません。

そのような優越感とかプライドなどを捨てて、自分の心が「幸せ」と思えることが大事だと思います。

このようなギャップもニーチェの魅力かもしれません。



他にもスピリチュアルの視点からの生きる意味や、フランクルなども例に挙げて紹介されてます。

ぜひ、興味のある方は、諸富祥彦氏の「人生に意味があるのか」を読んでみてください。


まとめ



ある歌手の方が、ずっと愛の歌を歌われています。

「それでも愛なんだ」というような言葉がよく使われています。

うまくいかない恋愛や友情などがあったとしても、自分にとっては愛が大事なんだ、だから諦めずに愛を、人を、求め続けるんだ、という意味だと思います。

ニーチェの言葉にもありましたが、至福の時間を感じることは、この人生の中でそれほど多いものではありません。

だからこそ、それを夢見て手に入らないと落ち込んでしまい、さらには求めること自体を諦めてしまいます。

でも、「それでも愛なんだ」と思えることが、次の至福の時間を生み出すための唯一の方法かもしれないと思いました。

その人とはダメだったけど、「それでも愛なんだ」と思えることは、幸せな気がします。



2021年8月2日月曜日

不安分析の方法

 不安分析はカーネギーの「道は開ける」などでご紹介しているそうですが、今回は根本橘夫氏の「心配性の心理学」から抜粋させていただきます。

心配をなくすには、心配という不可解なお化けを、細かくして分析していくこと、そして、分析した中で、実際に行動できそうなことをより具体的にスケジュールして実施することです。

具体的に説明します。


1.心配の明確化

なんとなく心配、なんとなく不安……これが一番恐ろしいのです。

これに陽の光を当てて、しっかりと向き合うとそれほど怖いことはないはずです。


1)心配事を列挙する



このように紙を横にして、3分割してください(ABC)

一番左のAには、思いつくままに心配事を記入します。

2)真に恐れていることをBに書く




3)失うものを書く




こうして眺めてみると、実利を失うことと、プライドが傷つくことが多いことに、気づく人もいるでしょう。


2.対処行動の決定




次に、実際に恐れていることが起きる確率を記入します。

リストラは、10%とか

夫の関係の悪化は、30%などです。

これがより高いものから、取り組みます。

恐れているほど、確率は高くないと思います。

このように、人間は恐れを過大評価しているのです。

そして、自分が取れる行動を考えてみます。



3.計画設定と実行


さらにいつ実行するなどを決めると、さらに具体的に行動しやすくなります。


いかがでしょうか。


こうして考えると、それほど恐れることもないことを、過大評価して恐れていることがあります。

これは、現実よりも「将来の心配」が肥大して、現実までもを覆い尽くしているからなのです。

この肥大したものを、等身大にするために、細かく分析して、具体的な行動予定を立てるだけです。

また、新しく心配などが増えたら、また新しく不安分析をしてください。

ありがとうございました。


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