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2021年11月22日月曜日

傷つかないための3つの方法

 


私たちが傷ついてしまうのは、傷をつけられるような言葉などを受けた時に、それをそのまま受け取った上でもともとある「私が悪い」と言うルールを適用しているからではないかと思いました。

しかし、本来は傷つけるようなことを言う人が失礼なわけで、まずはそれを受け取らないことが大切だと思います。

そこで、こんな時に傷つかないための3つの方法として


1. 傷つく人から物理的に離れること


まず1つ目は、傷つく人から物理的に離れることです。

とはいえ、突発事故のように、突然上から降ってくるようなこともあるでしょう。

その時は「危なかった。でも怪我がなくてよかった」と振り返った上で、「今度からはここは通らないようにしよう」と反省するように、同じ人や同じタイプの人には気をつけるように、自分なりにルールを決めていくと良いと思います。

こうして、突発事故を減らす方法を試す(傷つけられる機会を減らす)と、事故(傷つくこと)も減るでしょう。

また、自分が傷つくのを防ぐための行動ができないのは、自分に不健全な部分があると思ってください。

生きるものは、それを害する対象から逃げる、もしくは退治するのが当たり前であり、その機能がなくなると、当然ですが生きることが難しくなるからです。

そこを働かせるように努力することが大事です。


2. 明らかに「傷つける人だけが悪い」ことを認識し直すこと


2つ目は、明らかに傷つける人だけが悪いと言うことです。

「私が悪い」と言うのは、幼少時などに親などが自分を正当化しようと、「あなたが原因(で私は不幸になった)」などと言う、しつけと言う名前の呪いをかけられたからでしょう。

親などは全く気づいてないと思いますが、こんな小さな自分のはけ口が、子供の一生を変えるほど影響しているとは、と言うことです。

よく「傷つけた方は覚えてない」と言いますが、全くその通りです。

ある先生が「いじめっ子は容赦無く排除する」と言い切ってました。

つまり、話しあいとか更生とかではなく「他の人に害を与える人」として扱うのです。

そうなんです。本来は傷つけた方が悪く、言い聞かせたところで反省などしないのです。

しかし、家庭内では平気で傷つけるような言葉を使い、それを「しつけ」などと正当化します。

いかに子供を一発で傷つけようかと、無意識で企んでいる親も多いです。

もし、このようなことが学校で行われていたら、傷つけた方は猶予なく「排除」されるのです。

でも、家庭という密室では、何をしても排除されないので、強い人がどんどん傲慢になっていくのです。


3. 傷つけられながらも生きてきた自分に自信を持つこと


最後に3つ目は、傷つけられながらも生きてきた自分に自信を持つことです。

あなたが誰かをいじめていたり、復讐に燃えてないなら、あなたに害を与えた人の悪影響を受けずに、純粋なまま生きてきたと言うことです。

これは、なかなか難しいです。強くないとできないと思います。

自分を守るために誰かをいじめる。これが人を傷つける人の本当の原因です。

そんなことは、自分の役には立たないはずです。


いかがでしょうか。

ぜひ、自分を傷つける人との接触を、ゼロくらいまで減らすこと。

また、傷つける人と傷つけられる人は、どちらが悪いとかではなく、間違いなく傷つける人が悪いと再認識して自信を持つこと。

そして、いじめられながらも、歪まずに生きてきたことにも、自信を持つことです。

ぜひ、ピンチの際には思い出してください。

2021年11月20日土曜日

愛着理論:フォーナギーのメンタライジング

 


愛着理論といえば、ボウルビィが有名ですが、彼を始点に多くの人が愛着理論を成長させていきました。

メアリーメイン、そして今回のフォーナギーです。

フォーナギーはロンドン大学の新米講師だった時、ボウルビィが客員教授として出会い、講義を受けることになったそうです。



メンタライジング

メンタライジングとは、このように説明してます。

世界に関する体験を仲介する「心」という物があるということを悟るプロセス

ということです。

これは、「私はこう感じている」というような自己認識ではなく、心全般に関する知識のことだそうです。

また、反省機能という言葉も使用してます。


反省機能

反省機能とは、自分が悪いと責めることではなく、自分自身や他者を心理的な深みを持つ存在としてみることができるということです。

これは、以前「意味まで考える」という解釈をしたことがあります。

その人の表面的な態度とか言語だけでなく、「その時あの人はどんな状況でどんな具合になって、あのような言葉を吐いたのか」というところまで深めて理解しようとすることです。

思慮深さとか冷静さなどが必要になります。

すごく難しいのですが、これができる人とできない人では、同じ問題を前にしても、その人に及ぼす影響やその後の展開、将来まで大きく違ってくるのは想像がつきます。


このような反省機能を備えた人は、強いメンタライジング力を持って、問題を解決していくことが、低い人よりも可能になります。

これは、カウンセラーなどの支援者にも言えることで、表面的な言葉などに反応ばかりする人は、話を深めたり、目の前の人が言葉にできない言葉を受け取ることは難しくなります。

では、どのような人が強いメンタライジング力があるのかを、お伝えします。




強いメンタライジング力のある人の特徴


1. 心理状態というものの本質に気づいていること

  1. 自分自身や他者に関する私たちの理解は、いつも決まって不完全だということ。
  2. 人は、痛みを最小限に抑えるために心理状態を修正するかもしれないということ。
  3. 人は、内的状態を意識的に偽るかもしれないということ。
  4. 一定の状況においては、一定の心理的反応が予測できるということ。

2. 行動の根底にある心理状態を詳しく識別しようと心がけていること

  1. 行動について、信念・感情・願望の見地からもっともな説明ができること。
  2. 他者に関する私たちの解釈が、自分自身の心理状態の影響を受けているかもしれないということを理解していること。
  3. ある状況に関する感情が、その状況の客観的見地とは一致していないかもしれないということを悟っていること。

3. 心理状態の「発達的」様相を認識していること

  1. 昨日感じたことは、今日あるいは明日感じることとは異なっているかもしれないということ。
  2. 親の行動は、親自身の親の行動により形作られていると同時に、その子どもの行動を形作ってもいるということ。
  3. 児童期の視点は、しばしば成人としての理解の見地から修正される必要があるということ。

4. 面接者に関連する心理状態に気づいていること

  1. 話さなければ治療者は患者が知っていることを知ることはできないということ。
  2. 治療者は、患者の物語に対し、治療者自身の固有の情緒的応答をするかもしれないということ。
  3. 治療者の成育史とその結果としての心理状態は、患者のそれとはかなり異なっているかもしれないということ。
つまり、人間は不完全であり、それが治療者や親などの立場だったとしてもそれは「例外ではない」と気づくことで、自分への理解や他者への理解が深まることにつながります。

これは、さっきも言いましたが「だから仕方がない」とか「だから我慢する」という自己犠牲を強いるものではないということです。「そう思ってしまうのも、愛着の歴史に原因があるかもしれない」と考えるのが、メンタライジング力ではないでしょうか。


このような高い反省力を持つ親は、そうでない親よりも3から4倍以上、安定型の子供を育てる可能性があると、追跡調査によって示したそうです。

また、強い反省力には、不利な愛着史のせいでそのまま行くと「不安定型」の子供を育てるところを、その世代にわたる悪循環を壊す力もあると言ってます。

愛着と精神療法より


2021年11月10日水曜日

すぎた過去をやり直そうとする『反復強迫』

 


反復強迫とは、過去にトラウマの原因となった対象や出来事を、本来なら遠ざけるものですが、反対に同じような体験を求めているかのように、そして強迫的に……後ろから追い立てられるように繰り返してしまう試みです。

親から言われて傷つたことを、子供にも同じように言ったり、父親のような人は嫌だと思いつつ、いつも付き合う人は父親そっくりだったりするのも反復強迫と言えるでしょう。

なぜ、辛い結果が訪れるとわかっているのに、私たちは反復強迫をしてしまうのでしょうか。

今回は、「他人が気になって仕方がない人たち」の一部を引用します。


なぜ、人は罪悪感と生まれ育った「原家族」の状況を再現したいという、内なる欲求をもつのでしょうか?原家族が苦痛を与えるものだったにもかかわらず(子供自身、苦痛を与える場所として覚えてないとしても)、なぜ、その痛みを繰り返し受けるようなことを自分からしてしまうのでしょうか。

第一の理由は、もしも自分が生まれ育った状況をもう一度再現できるなら、私は今度こそちゃんとそれを正しくやれる、痛みを癒せると無意識に考えてしまうからです。

共依存者には時間をさかのぼり、過ちを正したいという強烈な欲求があります。

私たちだれもが、過去をやりなおしたいという欲求をある程度はもっています。こういった気持ちはありふれたものですし、それ自体は悪い願望ではありません。私たちは過ちから学び、正せるものは正します。けれども共依存者は、これを極端なまでに実行するのです。もともとの問題を正さなければいけない、もともとの傷を癒さなければならない、といういうのです。

第二の理由は、ひどい家族になってしまった原因は私にあるのだから、私は罰せられなければならない。痛みを感じて当然だ、と考えてしまうからです。私たち治療・救助者は、「あなた自身がこうした問題を引き起こしてるんですよ!痛みしかももたらさない状況に、あなたが、あなた自信を故意においているんですよ」といいたくなることが、たくさんあります。でも、それを私たちの口からはいわないようにし、患者自身が気づくようにしむけるのです。

あやまった罪悪感に対する償いをした、という隠された欲求の他に、共依存者は実際にみじめさにとらわれていることがあります。共依存症の主要な症状の一つは、不健康なのめり込み行動「嗜癖(アディクション)」ですが、共依存症者は、心的な苦痛に嗜癖することもあるのです。どれほどみじめであろうと、すくなくともそれは慣れ親しんだものです。苦痛の中にも心地よさがあるのです。

第三の理由は、安全な場所へのあこがれがあります。

原家族は、実際には安全なものではなかったかもしれませんが、それでも共依存者にとっては子供時代の避難所……その幼い人間が知っていた唯一の安全な場所……だったのです。

苦痛に満ち、みじめで、生命がおびやかされることさえあっても、その人間関係は、唯一の安全な場所なのです。共依存者にとっては「これが家族だ。これはもう一度あやまちを正すチャンスなのだ」と見えるのです。

こうして共依存者は、二度と我慢すまいとかつて誓ったのと、まったく同じ人間関係におちいります。昔からの同じ物語が、何百万というバリエーションをつけて、何度も何度も繰り返されるのです。

(途中略)

自分の原家族を再現したい、という欲求は、共依存症者の中では想像もつかないほど強力です。パートナーが反復強迫の性向をもっていないときでさえ、家族を再現するのに必要なようにとらえられるのです。これは共依存症者がおちいる恐ろしい罠です。

(途中略)

今はあなたにも、あなたの過去がどれだけあなたの現在をガッチリと掴んでいるか、お分かりになるでしょう。人はだれしもその人独自の歴史によって形作られているのです。


 

いかがでしょうか。

確かに、自分を痛めることで原因不明の罪悪感を償うと言った考えは、共依存者の多くがもっている特徴かもしれません。

また、一番のような「どこかでやりなおしたい。今ならできる」というのも、多くの人が陥りやすい罠だと感じます。

特に、自分が幸せだと感じた時に、「今までの負の歴史は嘘だったと思いたい」という欲求が出てきて、せっかく掴んだ幸せも握りつぶされてしまうようなことも、あると思います。

このように不幸な時期は辛いですが、それ以上に気をつけたいのは「幸せと感じた時期」です。この時期は非常に脇が甘くなります。すると、以前のままの共依存の支配者は、するするとあなたの中に、また入って来るのかもしれません。

幸せだと感じても、冷静に現実を見る目は鍛えておかないと、です。

2021年11月3日水曜日

善意の善人ほど始末に困るものはないという話

 


悪人礼賛

中野好夫


以下引用します。


ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との2つにつきる。


考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼく自身の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑をかけられた苦い経験は数限りなくあるが、聡明な悪人から苦杯を嘗めさせられた覚えは、かえってほとんどないからである。悪人というものは、ぼくにとっては案外始末のよい、付き合い易い人間なのだ。という意味は、悪人というのは概して聡明な人間に決っているし、それに悪というもの自体に、なるほど現象的には無限の変化を示しているかもしらぬが、本質的には自らにして基本的グラマーとでもいうべきものがあるからである。悪は決して無法でない。そこでまずぼくの方で、彼らの悪のグラマーを一応心得てさえいれば、決して彼らは無軌道に、下手な剣術使いのような手では打ってこない。むしろ多くの場合、彼らは彼らのグラマーが相手によっても心得られていると気づけば、その相手に対しては仕掛けをしないのが常のようである。


それにひきかえ、善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい。


かりにぼくがある不当の迷惑を蒙ったと仮定する。開き直って詰問すると、彼らはさも待っていましたとでもいわんばかりに、切々、咄々としてその善意を語り、純情を披瀝する。驚いたことに、途端にぼくは、結果であるところの不当な被害を、黙々として忍ばなければならぬばかりか、おまけに底知れぬ彼らの善意に対し、逆にぼくは深く一揖して、深甚な感謝をさえ示さなげればならぬという、まことに奇怪な義務を員っていることを発見する。驚くべき錦の御旗なのだ。もしそれ純情にいたっては、世には人間40を過ぎ、50を越え、なおかつその小児の如き純情を売り物にしているという、不思議な人物さえ現にいるのだ。

だが、40を越えた純情などというのは、ばくにはほとんど精神的奇形としか思えないのである。


それにしても世上、なんと善意、純情の売り物の夥しいことか。ひそかに思うに、ぼくはオセロとともに天国にあるのは、その退屈さ加減を想像しただけでもたまらぬが、それに反してイアゴーとともにある地獄の日々は、それこそ最も新鮮な、尽きることを知らぬ知的エンジョイメントの連続なのではあるまいか。


善意から起る近所迷惑の最も悪い点は一にその無法さにある。無文法にある。警戒の手が利かぬのだ。悪人における始末のよさは、彼らのゲームにルールがあること、したがって、ルールにしたがって警戒をさえしていれば、彼らはむしろきわめて付合いやすい、後くされのない人たちばかりなのだ。ところが、善人のゲームにはルールがない。どこから飛んでくるかわからぬ一撃を、絶えずぼくは恟々としておそれていなければならぬのである。


その意味からいえば、ぼくは聡明な悪人こそは地の塩であり、世の宝であるとさえ信じている。狡知とか、奸知とか、権謀とか、術数とかは、およそ世の道学的価値観念からしては評判の悪いものであるが、むしろぼくはこれらマキアベリズムの名とともに連想される一切の観念は、それによって欺かれる愚かな善人さえいなくなれば、すべてこれ得難い美徳だとさえ思っているのだが、どうだろうか。


友情というものがある。一応常識では、人間相互の深い尊敬によってのみ成立し、永続するもののように説かれているが、年来ぼくは深い疑いをもっている。むしろ正直なところ真の友情とは、相互間の正しい軽蔑の上においてこそ、はじめて永続性をもつものではないのだろうか。


「世にも美しい相互間の崇敬によって結ばれた」といわれるニ-チェとワーグナーの友惰が、僅々数年にしてはやくも無残な破綻を見たということも、ぼくにはむしろ最初からの当然結果だとさえ思えるのだ。伯牙に対する鍾子期の伝説的友情が、前者の人間全体に対するそれではなく、単に琴における伯牙の技に対する知音としてだげで伝えられているのは幸いである。伯牙という奴は馬鹿であるが、あの琴の技だけはなんとしても絶品だという、もしそうした根拠の上にあの友情が成立していたのであれば、ぼくなどむしろほとんど考えられる限りの理想的な友情だったのではないかとの思いがする。


友情とは、相手の人間に対する9分の侮蔑と、その侮蔑をもってしてすら、なおかつ磨消し切れぬ残る1分に対するどうにもならぬ畏敬と、この両者の配合の上に成立する時においてこそ、最も永続性の可能があるのではあるまいか。10分に対するベタ惚れ的盲目友情こそ、まことにもって禍なるかな、である。金はいらぬ、名誉はいらぬ、自分はただ無欲でしてと、こんな大それた言葉を軽々しく口にできる人間ほど、ぼくをしてアクビを催させる存在はない。


それに反して、金が好きで、女が好きで、名誉心が強くて、利得になることならなんでもする、という人たちほど、ぼくは付合いやすい人間を知らぬのだ。第一、サバサバしていて気持がよい。安心して付き合える。金が好きでも、ぼくに金さえなければ取られる心配はないし、女が好きでも、ぼくが男である限り迷惑を蒙るおそれはない。名誉心が強ければ、どこかよそでそれを掴んでくれればよいのだし、利得になることならどんなことでもするといっても、ぼくに利権さえなければ一切は風馬牛である。これならば常に淡々として、君子の交りができるからである。


金がいらぬという男は怖ろしい。名誉がいらぬという男も怖ろしい。無私、無欲、滅私奉公などという人間にいたっては、ぼくは逸早くおぞ気をふるって、厳重な警戒を怠らぬようにしてきている。いいかえれば、この種の人間は何をしでかすかわからぬからである。しかも情ないことに、そうした警戒をしておいて、後になってよかったと思うことはあっても、後悔したなどということは一度もない。


近来のぼくは偽善者として悪名高いそうである。だが、もしさいわいにしてそれが真実ならば、ぼくは非常に嬉しいと思っている。ぼく年来の念願だった偽善修業も、ようやく齢知命に近づいて、ほぼそこまで到達しえたかと思うと、いささかもって嬉しいのである。


景岳橋本左内でないが、ぼくもまた15にして稚心を去ることを念願とした。そしてさらに20代以来は、いかにして偽善者となり、いかにして悪人となるかに、苦心修業に努めて来たからである。それにもかかわらず、ぼく自身では今日なお時に、無意識に、ぼくの純情や善意がぼくを裏切り、思わぬぶざまな道化踊りを演じるのを、修業の未熟と密かに深く恥じるところだっただげに、この定評、いささかぼくを満足させてくれるのだ。


もっとも、これはなにもぼくだけが1人悪人となり、偽善者たることを念願するのではない。ぼくはむしろ世上1人でも多くの聡明なる悪人、偽善者の増加することを、どれだけ希求しているかしれぬのである。

理想をいえば、もしこの世界に1人として善意の善人はいなくなり、1人の純情の成人小児もいなくなれば、人生はどんなに楽しいものであろうか、考えるだけでも胸のときめきを覚えるのだ。その時こそは誰1人、不当、不法なルール外の迷惑を蒙るものはなく、すべて整然たるルールをまもるフェアプレーのみの行われる世界となるだろうからである。


されば世のすべての悪人と偽善者との上に祝福あれ!


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