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2019年11月25日月曜日

ヒトの見分け方ー親密さを求めて 健全な人間関係に欠かせない要素とは?

親密になるとは、ひとに近づくことですが、誰と親密になるのかを見分け、どうしたら近づけるのか?などと考えたことはあるでしょうか? 今日は、このようなことを、詳しく考えていこうと思います。 内容に、相手に与えなくては与えられない、という意味の表現がありますが、これは、何かを自分が得るために迎合するのとは、意味が違います。 迎合してしまう人ならば、金銭とか時間などを、相手に与えすぎていないか、相手は受け取ってばかりではないか、バランスが悪いのではないか?と、現実的な視点から疑問に感じるのも、不健全な関係に気づくチャンスになると思います。 ・・・続きは動画でどうぞ!

2019年11月9日土曜日

不安をやっつけろー不安に立ち向かうにはー







あなたは、今、不安ですか?

そうならば、どうしたら、不安から逃れられるのか、不安をやっつけられるのか、と悩んだこともあるでしょう。

今日は、そんなかたに聞いてもらいたいと思います。


「人はときに死んでも不幸を手放さない」。


この言葉を聞いて、どう思いますか?

これは、加藤たいぞう先生がよく使う言葉です。

先生は、このようにも言っています。

多くの場合、人は不安に対する対処の仕方を間違えて、人生を終わる。
不安にどう対処するかということが、人間の最大の問題である。

と言うことです。

不安に対する対処を間違えて、と言うのは、不安に立ち向かわずに、逃げる方法ばかりを模索して、人生が終わる、と言うことではないでしょうか。

それほど不安は人間にとって恐ろしいことかもしれません。

カレンホルナイは、人は不安になればなるほど現状にしがみつく、と言います。

とても居心地が悪いし、周りは嫌いな人ばっかりなのに、現状にしがみついてしまいます。

これも、現状から離れたときに、どんな未来が待っているのか、わからないと言う不安ではないでしょうか。

心の病気になってしまうのは、「今がどうにもならなくなっている」と気づいているのに、そんなところにしがみつくから、心の病気になってしまうのです。

このしがみつくと言う行為は、心の病になってしまうことからも、残念ながら、自分を不幸にする努力です。

逆に、嫌な場所から飛び立つと言う行為は、不安は伴いますが、自分を幸せにする努力です。




あなたはどちらの努力を、今、していますか?


ここで、しがみつく人は、どうしてしがみついてしまうのか?と言うと、しがみついた現状から離れ、後ろを振り向くと、「不安」と言う得体のしれない魔物が襲ってくるはず、と思っているからではないでしょうか。

つまり、「不安」と言う得体のしれない魔物に立ち向かうと言う自分が信じられないのではないでしょうか。


たとえば、隣人ともめて殺人事件にまでなってしまう。


入社した途端に嫌な会社だとわかったけど、やめられなくて自殺してしまう。


離婚したくなくて、大嫌いなパートナーと、睨み合いながら暮らしている。


このような選択は、すべて「不安」から逃げるための、選択なのかもしれません。


たとえば、隣人ともめているけど、次の場所へ引っ越すのが、不安。


次の会社に転職できるのかが、不安。


自分の稼ぎでこの先食っていけるかどうか、不安。


もちろん、このような不安は、生命に直結するものですから、不安なのは当たり前です。

でも、不安から逃げると、先ほどの例のように、未来も同じ不幸のままです。




気に入られることで解決をしようとすると?


でも、自分で不安に取り組むことは、あまりに大きな仕事すぎて、取り組めないと感じたことはありませんか?

確かに、やったことのない人にとっては、とんでもないおお仕事のように感じます。

そうなると、誰かにやってもらいたい、と依存しんがむくむくと出てきます。

すると、誰かに気に入られたり、愛されたりすることで、私の代わりに不安を解決して、となります。

そのための、気に入られるための言動が、迎合となります。

では、迎合的なタイプとはどんなタイプでしょうか。

まず一つ目は、従順、何事にも遠慮するタイプ

二つ目は、仕事熱心、真面目、強く優れていようとする。

三つ目は、無理して明るく振る舞う。




いかがでしょうか。

このような言動が、あなたに当てはまるようなら、あなたはどこかで不安との向き合い方を、間違えて反対方向へ向かっているのかもしれません。

今は誰かが自分の代わりに自分の責任をとってくれているかもしれません。

でも、それはいつまでと言う保証はあるでしょうか?

自分の責任を取ってもらう見返りをいつ、求められるかわかりません。

それこそが、「不安」のたねになってしまいます。



小さい頃の体験で、今を生きていないか?


私たちは、小さな頃にトラウマがあったとすると、その記憶はなかなかなくなるものではありません。

ただ、考えてみてください。


あなたは、小さな頃に遊んでいたおもちゃを今でも遊ぼうと思いますか?


小さな頃に相手にして欲しいと願っていた相手と、今でも四六時中一緒にいたいですか?


今は成長し、求めるものも違うと思います。


求めるものも、求める気持ちも、過去のものなのに、なぜかマイナスの感情だけは今のものになっている。

それは、過去を懐かしく思う気持ちかもしれません。

でも、それはもしかすると、不幸を手放さないための手段かもしれません。

なぜ、不幸を手放さないかと言うと、手放すと不安が残るからです。

自分には、何もなくなってしまう、からではないでしょうか。

ここで、加藤たいぞう先生の書籍から抜粋したいと思います。


エーリッヒフロムの考え方である。
それは、周囲の人から気に入られることは、あなたの心の問題を解決しない。
フロムは、第一次的絆を失いながら、第二次的絆を獲得できないでいるときに、人は不安だと言う。
フロムのいう第一次的絆とは、個性化の過程によって、個人が安全に解放される以前に存在する、母親との絆のことである。
これらの絆を第一次的絆と呼ぶ。
母親との一体感のような原始的な絆である。
第一次的絆は、子供に安定感を与える。
この第一次的絆を失ってからは、人は自分で安定を見つけなければならない。
この自分で安定を見つける仕事は、実際の世の中で実績をあげる仕事と同じように大切なことである。
この方向性の違いが、後に心理的な挫折となって現れる。
例えば、憂鬱や無気力や不機嫌やイライラである。
個性化の過程には、二つの側面がある。
一つの側面においては、肉体的にも感情的にも、精神的にも強くなっていく。
他の側面は、孤独の増大である。
個性化が進展することによって、孤独と不安が高まる。
そして、自分の役割や自分の人生の意味を感じられなくなる。
自分の無力さと自分の無意味さの感情が募ってくる。
この問題の解決をしなければならない。
そこで個性を投げ捨てて、孤独とむりょく感から逃げようという衝動が生まれることがある。
それが、服従である。
しかし、服従は子供の不安を増大させて、敵意と反抗を生み出すとフロムはいう。
相手に気に入られることで人生の問題は解決しない。
相手に気に入られても、日常生活における「怯え」は無くならない。
安心するために、気に入られようとすれば、いつも心配していなければならない。
自分を信じられない人は、どんなに気に入られても、心配で心配で仕方ないのである。
それがフロムの言う服従の最大の問題点である。
気持ちの上では、八方ふさがりの状態である。

と言うことです。
いかがでしょうか。




つまり、個性化、もっと簡単に言えば、自分が独り立ちするための勇気がなくて、その上に第二次的絆も得られない。

いろんな問題を、不安と言う一つの袋にまとめて入れて、手をつけられていない、と言うことが、悩んでいると言うことなのかもしれません。

この袋をまず自分で覗くことが、初めの一歩になるのでしょう。





迎合的な自分をやめる練習



迎合的な言動は先程も言いましたが、この通りです。

まず一つ目は、従順、何事にも遠慮する。

二つ目は、仕事熱心、真面目、強く優れていようとする。

三つ目は、無理して明るく振る舞う。

これを、やりやすいところから、やめていくことです。




あなたにとって、どれが辞めやすいですか?

最初からやってないことや、すでに辞めていることがあるかもしれません。

そこで、出てくる問題は、変化に対する不安です。

これが辞められないから、ずっとあなたは仕事熱心で、やりたくないことをして、人の顔色を伺って生きてきたのではないでしょうか。

この先も、従順さや迎合的な態度を続けますか?

変化と比べて、従順さや迎合的な態度のほうが楽ですか?

ここで加藤たいぞう先生の書籍から抜粋したいと思います。

先に述べた三つの言動は、動機を考えると、逃げのエネルギーなのである。
燃え尽きる人は、死にそうになっても頑張っているが、それは元気な子供のエネルギーとは違う。
弱い人は、失恋から逃げるために別の人を恋する。
その人が好きだから恋するのではない。
同じように、今の不安から逃げるために真面目で仕事熱心な人がいる。
その仕事が好きなのではない。
不安な人は、その日から逃げている。
不安な人は、今、から逃げている。
今日を生きるとは、今を生きることだ。
何十年も前の心の傷を通して今を感じることではない。
どんなに今日いちにちが素晴らしくても、何十年も前の心の傷を通して今日を体験すると、それは重苦しいものになってしまう。

と言うことです。

いかがでしょうか。

迎合的な態度をやめられそうですか?





なぜ、不安で何もできないのか?


不安について、色々とお伝えしてきましたが、不安に悩む人の特徴であるとともに、不安が解決できない理由とは、この3つではないでしょうか。




  1. 最高の結果を求めている。
  2. 一気に理想の姿に到達することを求めている。
  3. (自分では無理なので)誰かにやって欲しいと願っている。



これは、挫折しやすい人の特徴ともいえるでしょう。
一言で言うと、理想が高く、完璧主義で、そしてすぐに結果を求めていることがわかります。

だからこそ、途中でつらくなるし、諦めたくもなります。

また、誰かにやって欲しいと願うのであれば、やってくれない人に対してはマイナスの感情も生まれるでしょう。

こうして、不安を抱えつつも、怒りなども一緒にためていくことになります。

つまり、不安とは、消極的に怒っていることかもしれません。

そうならないためには、逆を試すことになります。

それは


  1. 最高の結果でなくて良い。できることで良いと思えること。
  2. 一気に理想に到達しなくて良い。少しづつ小分けにして目標を決め、達成していく。
  3. 誰かにやってもらおうとせず、自分でできる範囲のことをやる。


つまり、自分でできることを、他人を気にせずにやっていく。ことです。


途中でなんども不安になるでしょう。
だからこそ、なんども休憩しながら進むしかありません。
期限はないのですから、ゆっくりでいいのです。
この一生の中で、自分なりに達成したと思えたらいいのではないでしょうか。





不安になったときに考えること


ここでも3つあげたいと思います。


  1. 事実が不安なのではない。と考える。
  2. 他人が同じ経験をしたらどう思うか?と考える。
  3. 自分が最も恐れていることは何か?と考える。


です。詳しくみていきます。

1.事実が不安なのではない

と言うのは、私は不安と言う思考回路が過剰に働いている。と、自覚をすることです。
だから、現状を確認して、冷静になろうと、いつも思い出すようにしましょう。

2.他人が同じ経験をしたらどう思うか?

さっきも言いましたが、不安と言う思考回路が過剰に働いているので、悩みの遺伝子がもともとない人はどう感じるかを、第三者の立場になって、俯瞰するのは、とても大切です。
切羽詰まった時こそ、決断や言動する前には、すぐには応えずに、まずはトイレなどにこもって、この視点を思い出しましょう。

3.自分が最も恐れていることは何か?

あなたが一番恐れている未来の扉の向こうには、何がありますか?
そのことと現状を冷静に比べてみましょう。
どこかで、深夜の妄想のような、現実的でない想像が含まれていると思います。
それを、丁寧に一つづつはずしていきましょう。


いかがでしょうか。

まとめ


不安についてまとめますと、
私たち、特に、心理的に追い込まれてしまう考え方の特徴として、覚えておきたいことがあります。

それは、不安などの自分の前進を邪魔する存在に対しての対処法に問題があったということです。
対処法ということは、その前の考え方にも特徴があります。

どんな特徴かというと、




そして、これができないと判断をすると、すぐに諦めたり、ひきこもったり、誰かを憎むというような、別のマイナスの感情に流れて、終わってしまっていることがほとんどだと思います。

この流れを変えるには、考え方を毎回修正していくことが大事です。

例えば




いかがでしょうか。



一部の若い人がよく「面倒くさい」と、言います。

それは、まさしくこのような問題を前にした時に、「面倒くさい」と、すぐに判断をしてやめる癖がついているように感じます。

そのような「面倒くさい」と、思うには、自分に対する否定的な気持ちを持つに至った歴史が、あるかもしれません。

ただ、その歴史をいくら詳しく紐解いたとしても過去の歴史は実際に体験できないように、今のあなたも「今」を生きることが最重要なのかもしれません。

また、「今」を生きるためには、完璧だったり、スピードだったり、楽に到達することを求めるよりも、下手なりにも「自分」でやってみることで、経験を増やしていくことのほうが大事なのかもしれません。


最後に、シーベリーの言葉を紹介したいと思います。


あなたが心配にとりつかれた人間を演じれば、不安は増すばかりです。



いかがでしょうか。

これは無理に虚勢を張って、周りを怖がらせることが目的なのではありません。
不安を恐れているうちは、不安に負けている証拠です。

「不安よ、来れるもんなら、来てみろ!」と、全ての不安の想像がいっぺんに来たことを想像して、戦うイメージトレーニングをしてみてください。

それが、万が一、実際にきたとしたら、「本当に来た!」と、ちょっと笑えると思います。

以上で、不安をやっつけろ、を終わります。

ありがとうございました。

2019年11月2日土曜日

期待をする病ー操作的期待に従わないということー






今日は期待という病について、お話をしたいと思います。


あなたは、こんなことで悩んでいませんか?


どうしても人間関係がうまくいかない。

努力すればするほど、自分が苦しい。

身近な人になればなるほど、関係が悪化しやすい。

心配してやっているのに、迷惑がられる。


そんな人にぜひ聞いて欲しいと思います。


以前から、よくこのチャンネルにコメントをくれるかたが、このようなコメントをくれました。




人に期待をするな。

亡くなった主人の言葉を思い出しました。



という言葉です。



私は、この言葉が非常に気になり、ずっと考えてきました。

なくなったご主人の遺言のような言葉。
これにはエゴも操作も、きっと全くないのだと思います。

一人の人間が一生を通して学んだ教訓だと思いました。

この愛する人への貴重な言葉を、ぜひ皆さんともシェアしたくて、期待について色々と考えたり、調べたりしてきました。

今までも、依存とか、甘えるなどの言葉を使って、期待については扱ってきました。

でも、依存などの言葉にしてしまうと、その言葉のインパクトが強くて、それを扱いきれずに、最終的に「依存的になるのは、やめよう」というような陳腐な結論で終わっていたような気がします。

ここでは、依存や甘え、などが生まれる前の、期待という気持ちについて考えていきたいと思います。

では、早速いきましょう。



期待とは?



ある人がそれをするのを(他の人が)あてにし、心待ちに待つこと。将来それが実現するように待ち構えること。

と、辞書に書いてありました。


あなたは、どんな期待を、どんな人や環境に求めていますか?


愛して欲しいという期待。

何かを与えて欲しいという期待。

親から与えられたいという期待。

恋人から与えられたいという期待。

仲間なら当然くれるはずだという期待。

この期待こそが、悩みの始まりであり、悩みが解決をしない原因でもあります。




周りを見渡すとわかると思いますが、期待の大きい人はストレスが多く、少ない人はストレスは少ないと思います。

なぜ、私たちは、期待が勝手に生まれて、最後には期待に振り回されてしまうのでしょう。

そして、その期待を取り除くにはどうしたら良いのでしょうか。

こちらは、マークダグラスというかたの言葉です。

非現実な期待は、情報の認知に悪影響を及ぼし、ダメージとなる可能性がある。

期待とは、ある将来にどのように見えるか、聞こえるか、匂うか、感じるかという心の表現であり、私たちの知っていることから生まれる。

では、知っていることとは何か。

それは、「外部環境がそれ自体を間違いなくこう表現する」と学んでいることである。

ただし、この間違いないという確信は、その独自の真実の解釈である。
つまり何かを期待しているとは、自分が真実であると信じ込んでいることを将来に投影しているのである。
1分後、1時間後、いちにち後、一週間後、一ヶ月後に、自分が心に描いた通りになるように、外部環境に期待しているのだ。

しかし、この将来への投影には、慎重にならなければならない。
なぜなら、期待はそれほど残念なもの、精神的苦痛を生み出す可能性があるものはないからだ。
ちょうど期待通りのことが起こった時、どのように感じるだろうか。
それは素晴らしいものだろう。

逆を言えば、期待が外れた時はどのように感じるだろうか。
一般的な反応は、精神的苦痛だ。
ここが問題だ。

ということです。

ただ、このように期待をネガティブに捉えていると、そんなことはない。私は期待をされてやる気になった。という人もきっといるでしょう。




それは、ピグマリオン効果といって、その人にとって重要な意味のある他者が、抱く期待によって、その人の能力に変化が生じる現象です。

ただし、この重要な他者との関係に不信感や、支配と従属の関係があれば、たちまちプレッシャーとなり、潰される可能性も出てきます。

先生やコーチなどは、このピグマリオン効果を使って生徒に実力を発揮させようとすることも多いようですが、この使い方を間違える大人も結構いるように感じます。

期待する相手を潰し、そして最終的には自分も信頼を失ってしまう期待とは、いったいどんなものなのでしょうか。

期待する相手を潰すケースで、頭に浮かぶのは、親の期待ではないでしょうか?





ここで、期待とあきらめの心理、という書籍から、一部抜粋したいと思います。

親の期待のありかたとして、親は「我が子のために」と大義を掲げながら、子供への過剰な期待を生み出すことがあり、親の願いや期待は、必ずしも子供の身の丈に合っているとは言えず、親の独りよがりな欲求として子供の心に入り込むことになる、という考え方がある。

さらに、最近の親と子の関係性とそこから発生する期待について、子供の存在意義の変化に注目したものがある。

つまり、子供の存在意義が、親にとっての「投資財」、「生産材」つまり、(子育ての結果、子供が将来、老いた自分たちの面倒を見てくれるであろうという期待)から、「消費財」つまり、子供をいい子に育てることが、親にとっての、名誉またはステイタスであり、子育ての苦労が何らかの見返りとして返ってくることへの期待。へと変化を遂げてきたと述べている。

つまり、子供の存在意義の変化は、親自身が自らの生きがいを喪失し、親としての社会的役割が家庭の内側だけに向けられ、その結果、子供が自己実現の手段になっているのではないか、ということである。

ということです。
いかがでしょうか。


また、その期待を受け止める子供によっても、その後の自己肯定感とか、人間関係に左右していくということです。

つまり、喜んで期待を受け止めるのか、もしくは、嫌われたくない、叱られたくなくて期待を受け止めるのかによって、その後の性格形成は、大きく変わっていく、ということです。

だからこそ、期待をする側、特に影響力のある、親や先生が期待をかける前に、自分について考えないといけないことがあります。

それは、以下の三つです。




  1. 支配性の認知
  2. 援助の等価性
  3. 子供を信頼する


となります。


つまり、支配していることにちゃんと気づいているか?
そして、その援助があっているか?
そして、まずは期待する相手を信頼しているのか?もし、してないなら、まずはそこを考える必要がある、ということです。

つまり、期待されていたほうとしては、親などの大前提としての条件を満たした上で、期待されていたかどうか、を振り返り、全くの個人の独りよがりとして身勝手な期待をされていたのであれば、それは取り合わなくてよかったことかもしれない、ということです。

もちろん、当時はそんなことはできなかったでしょう。

ただ、今でも怯えている人もいるかもしれません。

そんな人もぜひ、いま、冷静に考えてみてください。



期待する人が期待しなくなるまでの4つのプロセス


あなたは期待する側かもしれないし、期待されて押しつぶされている側かもしれません。

どちらにしても、その期待に気がつかないと、いつかは期待されていた人も、誰かに期待をしていくことになります。

特に、期待が通りやすい、上の立場の人は、それが愛であるかのように表現して、とことんまで求めてしまうので、注意が必要です。

また、期待されているほうは、対応は難しいと思いますが、期待の成り立ちについてちゃんと理解することで、うまく対応できるようになることを願っています。

もし、期待の強い人がカウンセリングを受けるとすると、それなりのプロセスがあると思ってください。

つまり、すぐに解決、快方へ向かうわけではないのです。

それを4つに分けてみます。

ここで、期待とあきらめの心理、という書籍から、一部文言を抜粋したいと思います。

4つのプロセスとは、




まずは初めのプロセスは、「期待」でいっぱいの状態です。
これを操作的期待と呼びます。
純粋に大きく育って、というような期待ではなく、自分の代わりに出世して、みたいな身勝手な期待です。

次に、2つ目のプロセスは、期待の鈍化
つまり、自分が持つ期待に対して、行き詰まりを感じて、うまくいかないな、と感じるようになります。

ここでの行き詰まりの定義をお伝えします。

これは、操作的期待の行き詰まりということで、「子供が親の思い通りにならず、親の操作的期待に対し、拒否・拒絶をすることで、親の思いが子供にうまく伝わらなくなること。」です。

この思い通りにならないことに対して、物分かりの良い人なら、「私の期待に何か問題でも?」と内省するかもしれませんが、多くの場合は、原因を相手に求めてしまいます。





つまり、聞き分けのない子供、と判断するとか、言うこと聞かないと恐ろしいことが起きるわよ。と脅す場合もあります。
それでも聞かなければ、先生とかカウンセラーのところへ連れていかれるかもしれません。

アダルトチルドレンは、このような批判や脅しに屈してしまったということになります。

ただ、ここで無視したり、言い返したりしていると、親にも何らかの気づきがあるかもしれない、ということになります。

ただ、それも心の成熟度によって、なかなか理解できない場合も多いと思います。



次に、3つ目のプロセスとしては、あきらめ、です。
つまり、最初の自分の身代わりのような操作的期待をあきらめ、本当にその子が生き生きと成長することを望むようになる、ということです。

もう少し具体的に言えば、

二つ目の行き詰まりを通して、「親の操作的期待が明らかになることで、コントロール可能となり、操作性が弱まり、他方で親が一般的に持っていると考えられる『子供への純粋な思い』が活性化され、増大していく」ということです。

つまり、期待をかける人の自分自身の思いと、期待をかける相手との区別をつけ、心を整理していくことで、私とあなたは違う人間なのね。と気づけば、しつこく期待を迫ることもなくなるということでしょう。


そして、最後は、ありのままを認める。ということです。

もうそこには期待など頭になく、今の目の前のあなたが楽しければそれでいいのだ、と考えられるようになるということです。




このプロセスを見てわかることは、どこかの地点で、行き詰まりを感じないことには、先には進めないということです。

つまり、プレッシャーに悩んでいるこの時間も、決して無駄ではない、ということです。

ただ、あまりに適応力を発揮して、一つ目のような操作的期待にひたすら応えていたとしたらどうなるでしょうか?

きっと、その操作的期待はずっと続くことが想像できます。

だから、期待を受けているほうの対処法として考えられるのは。
まずは、操作的期待かどうかを判断できるようになること、だと思います。

それを言葉で出さなくてもいいと思うのです。

「あ、これは操作的期待なんだな」と、気づくだけでもいいのです。

そうすれば、目の前の人は、操作的期待を持ちやすいから、誘導してしまうような発言は極力控えよう、などと予防ができるようになります。

それでも、相手があきらめずにしつこく操作的期待を押し付けてくるならば、きっと自然と冷たくあしらうようになるでしょう。

それがプロセスの二つ目の、行き詰まりを感じて、さらに、みっつ目のあきらめまで到達するかもしれません。

とにかく、操作的期待に従っていると、その先には進めないということです。

無視してもいいし、言い訳をして離れてもいいのです。

操作的期待に従わない、という決意をしたらいいと思います。

また、あなたが親や先生などで、操作的期待をしていると思うなら、相手を従わせることに、夢中になる前に、なぜ私は操作的期待をしてしまうようになったのか?を必死で自分で考える必要があります。

自分の課題を誰かになすりつけてしまっていないか、考えてみましょう。

いかがでしょうか。




期待に沿おうとする心理



同じ親でも先生でも、言うことを聞く子供もいれば、自由にやっている子供もいます。

それは元々の性格といってしまえばそれまでですが、その心理の違いを考えてみましょう。

操作的な期待をかけられて、「何それ、やりたくない」と答えられるか、言われる通りにやるのか、の違いは、まずは、受け取る方が、期待について理解しているか、いないかが大きく違うと思います。

まさか、操作的期待とは知らなくても、「何かそれは違う」、とか、「あの人に助言されると嫌な気持ちになる」、と気づくことは、このような間違った期待を、はねのけるための最初の一歩です。

今までは操作的期待など知らなかった人も、これからは、これは操作的期待だ、などと気づくことができるようになるでしょう。

知っていてやるのと、知らないでやるのはおお違いです。

そこは大きな一歩がすでに進んでいると思ってください。

そして、次のステップとして、知っていても操作的期待を受け止めてしまうのであれば、自分の中に、迎合的な自分がいないか、もしくは、承認欲求が強いのではないか、などと内省してみることもお勧めします。

いかがでしょうか。





どんな自分がいいのか?を考えます。


操作的な期待から逃れ、自分らしい自分を生きていくにはどうしたら良いのか?について

ここでは考えていきたいと思います。

もし、先ほどのよっつのステップが成功し、今までのやり方に、行き詰まりを感じたならば、お互いの態度は明らかに変わっていくでしょう。

反抗期で散々暴れまわった子供に対応するような、少し冷めたような態度を前にすると思います。

そこまで来たことは、素晴らしいことです。

ただ、慣れていないことから、また昔のような変な期待を掛け合うという、病的なやり取りを懐かしく感じて、元に戻ってしまう危険もあるのが、この時期だと思います。

そこで、あなたが自ら望んで親の操作的な期待に沿わないと決意し、それなりに相手にも伝わって、効果が出てきたとします。

そのさきの生き方は、それぞれが自分で見つけていくのですが、考え方をお伝えしたいと思います。

ここで、期待とあきらめの心理、という書籍から、一部抜粋したいと思います。

特に外的な環境に対しての「親の強い操作的期待」にみずからを合わせていきてきた子供にとっては、まさに「命のねじ曲げ」と言われるような状況にあり、どこかで親の期待に「沿えない」、「沿いたくない」という思いがあるが、それが押し込められたまま、成長してきているのである。

その命のねじ曲げが、親の期待のあきらめという環境の変化により、再び子供が「命ののびやかさ」を取り戻していき、みずからの成長を始める時期であると考えられる。

そこでまず「迎合的な自分」が変わるためには、親の期待に沿わないことを実行することである。
それには、親の期待に対し、「拒絶する能力」が形成されて来ることが大切であり、親の期待を絶対的なものとしてではなく、拒絶したり無視したりできることを、実感として体験していく必要がある。
親の操作的期待を拒絶し、わがままな自分を形成していくことにつながるのである。

この諦めの時期において、子供は本当の自分を少しづつ感じ取れるようになるのであるが、迎合的な自分がなくなれば、自然にその奥から本当の自分が出てくるというものではない

つまり、親の期待に沿って、迎合的にいきてきた自分もまた本当の自分の一部であり、迎合的な自分を生かしながら、それを通して少しでも本当の自分がひの目を見ることができるようになるのであり、迎合的な自分を活用しながら、少しずつ本当の自分が形成されていくのである。


ということです。

いかがでしょうか。

まとめ


まとめますと、誰かから期待をかけられてつらい人は、まずその人の操作的期待に気づくことです。

ただし、相手に気づいてもらう必要はありません。
わからせようとするのは、間違いなく「期待」です。

それを使っている人は、それを当たり前のように使っているのですから、指摘しても気づくことはないからです。

無意識の領域なのです。

そして、自分で操作的期待に気づき、嫌われたくない、認められたいという承認欲求よりも、自分らしく生きることが大事だと自分で思えるならば、その操作的期待を拒否したり、無視をする。

そのことで、相手との関係性に変化が生まれ、冷めた感じ、期待されない寂しさなどを一時的に感じるかもしれませんが、それは慣れ親しんだ負の感情を懐かしく感じているだけなので、ぜひ自分との会話で元に戻らないように工夫してください。


また、誰かを心配しているのに迷惑がられていると思っている人は、まずは自分と向き合ってください。

誰かを変えようとするのは、良くも悪くも、自分の支配下に相手を置いておきたいという心理があるからです。

そこに気づかずに、どうやったら自分の言うことを聞くかに終始すれば、きっとあなたの周りには誰もいなくなるでしょう。


そして、期待する側、期待される側のどちらにも共通して言えることは、お互いに自分が成長するためのチャンスを与えられていると、受け取ることではないでしょうか。

そしてその学びは、自分の代わりに誰かがやるべきなのではなく、自分で取り組むしかないのです。

それは、あなたに期待をかける人も同じです。

今回参考にした、期待とあきらめの心理という書籍は、特に先生や親に読んでもらいたいのですが、視点を変えたら、期待をかけられる側が、相手を知る意味で非常に役立つと思います。

ぜひ、期待に悩んでいるかたは読んでみてください。

そして、最後に大切なコメントをありがとうございました。
この場でお礼を言わせてください。


人に期待をするな。

この言葉によって、多くの人が救われることを願っています。

最後にこの言葉も、覚えておいてください。



「操作的期待に従わない」です。

以上で、期待という病を終わります。

ありがとうございました。


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