
今日は期待という病について、お話をしたいと思います。
あなたは、こんなことで悩んでいませんか?
どうしても人間関係がうまくいかない。
努力すればするほど、自分が苦しい。
身近な人になればなるほど、関係が悪化しやすい。
心配してやっているのに、迷惑がられる。
そんな人にぜひ聞いて欲しいと思います。
以前から、よくこのチャンネルにコメントをくれるかたが、このようなコメントをくれました。

人に期待をするな。
亡くなった主人の言葉を思い出しました。
という言葉です。
私は、この言葉が非常に気になり、ずっと考えてきました。
なくなったご主人の遺言のような言葉。
これにはエゴも操作も、きっと全くないのだと思います。
一人の人間が一生を通して学んだ教訓だと思いました。
この愛する人への貴重な言葉を、ぜひ皆さんともシェアしたくて、期待について色々と考えたり、調べたりしてきました。
今までも、依存とか、甘えるなどの言葉を使って、期待については扱ってきました。
でも、依存などの言葉にしてしまうと、その言葉のインパクトが強くて、それを扱いきれずに、最終的に「依存的になるのは、やめよう」というような陳腐な結論で終わっていたような気がします。
ここでは、依存や甘え、などが生まれる前の、期待という気持ちについて考えていきたいと思います。
では、早速いきましょう。
期待とは?

ある人がそれをするのを(他の人が)あてにし、心待ちに待つこと。将来それが実現するように待ち構えること。
と、辞書に書いてありました。
あなたは、どんな期待を、どんな人や環境に求めていますか?
愛して欲しいという期待。
何かを与えて欲しいという期待。
親から与えられたいという期待。
恋人から与えられたいという期待。
仲間なら当然くれるはずだという期待。
この期待こそが、悩みの始まりであり、悩みが解決をしない原因でもあります。

周りを見渡すとわかると思いますが、期待の大きい人はストレスが多く、少ない人はストレスは少ないと思います。
なぜ、私たちは、期待が勝手に生まれて、最後には期待に振り回されてしまうのでしょう。
そして、その期待を取り除くにはどうしたら良いのでしょうか。
こちらは、マークダグラスというかたの言葉です。
非現実な期待は、情報の認知に悪影響を及ぼし、ダメージとなる可能性がある。
期待とは、ある将来にどのように見えるか、聞こえるか、匂うか、感じるかという心の表現であり、私たちの知っていることから生まれる。
では、知っていることとは何か。
それは、「外部環境がそれ自体を間違いなくこう表現する」と学んでいることである。
ただし、この間違いないという確信は、その独自の真実の解釈である。
つまり何かを期待しているとは、自分が真実であると信じ込んでいることを将来に投影しているのである。
1分後、1時間後、いちにち後、一週間後、一ヶ月後に、自分が心に描いた通りになるように、外部環境に期待しているのだ。
しかし、この将来への投影には、慎重にならなければならない。
なぜなら、期待はそれほど残念なもの、精神的苦痛を生み出す可能性があるものはないからだ。
ちょうど期待通りのことが起こった時、どのように感じるだろうか。
それは素晴らしいものだろう。
逆を言えば、期待が外れた時はどのように感じるだろうか。
一般的な反応は、精神的苦痛だ。
ここが問題だ。
ということです。
ただ、このように期待をネガティブに捉えていると、そんなことはない。私は期待をされてやる気になった。という人もきっといるでしょう。

それは、ピグマリオン効果といって、その人にとって重要な意味のある他者が、抱く期待によって、その人の能力に変化が生じる現象です。
ただし、この重要な他者との関係に不信感や、支配と従属の関係があれば、たちまちプレッシャーとなり、潰される可能性も出てきます。
先生やコーチなどは、このピグマリオン効果を使って生徒に実力を発揮させようとすることも多いようですが、この使い方を間違える大人も結構いるように感じます。
期待する相手を潰し、そして最終的には自分も信頼を失ってしまう期待とは、いったいどんなものなのでしょうか。
期待する相手を潰すケースで、頭に浮かぶのは、親の期待ではないでしょうか?

ここで、期待とあきらめの心理、という書籍から、一部抜粋したいと思います。
親の期待のありかたとして、親は「我が子のために」と大義を掲げながら、子供への過剰な期待を生み出すことがあり、親の願いや期待は、必ずしも子供の身の丈に合っているとは言えず、親の独りよがりな欲求として子供の心に入り込むことになる、という考え方がある。
さらに、最近の親と子の関係性とそこから発生する期待について、子供の存在意義の変化に注目したものがある。
つまり、子供の存在意義が、親にとっての「投資財」、「生産材」つまり、(子育ての結果、子供が将来、老いた自分たちの面倒を見てくれるであろうという期待)から、「消費財」つまり、子供をいい子に育てることが、親にとっての、名誉またはステイタスであり、子育ての苦労が何らかの見返りとして返ってくることへの期待。へと変化を遂げてきたと述べている。
つまり、子供の存在意義の変化は、親自身が自らの生きがいを喪失し、親としての社会的役割が家庭の内側だけに向けられ、その結果、子供が自己実現の手段になっているのではないか、ということである。
ということです。
いかがでしょうか。
また、その期待を受け止める子供によっても、その後の自己肯定感とか、人間関係に左右していくということです。
つまり、喜んで期待を受け止めるのか、もしくは、嫌われたくない、叱られたくなくて期待を受け止めるのかによって、その後の性格形成は、大きく変わっていく、ということです。
だからこそ、期待をする側、特に影響力のある、親や先生が期待をかける前に、自分について考えないといけないことがあります。
それは、以下の三つです。

- 支配性の認知
- 援助の等価性
- 子供を信頼する
となります。
つまり、支配していることにちゃんと気づいているか?
そして、その援助があっているか?
そして、まずは期待する相手を信頼しているのか?もし、してないなら、まずはそこを考える必要がある、ということです。
つまり、期待されていたほうとしては、親などの大前提としての条件を満たした上で、期待されていたかどうか、を振り返り、全くの個人の独りよがりとして身勝手な期待をされていたのであれば、それは取り合わなくてよかったことかもしれない、ということです。
もちろん、当時はそんなことはできなかったでしょう。
ただ、今でも怯えている人もいるかもしれません。
そんな人もぜひ、いま、冷静に考えてみてください。
期待する人が期待しなくなるまでの4つのプロセス
あなたは期待する側かもしれないし、期待されて押しつぶされている側かもしれません。
どちらにしても、その期待に気がつかないと、いつかは期待されていた人も、誰かに期待をしていくことになります。
特に、期待が通りやすい、上の立場の人は、それが愛であるかのように表現して、とことんまで求めてしまうので、注意が必要です。
また、期待されているほうは、対応は難しいと思いますが、期待の成り立ちについてちゃんと理解することで、うまく対応できるようになることを願っています。
もし、期待の強い人がカウンセリングを受けるとすると、それなりのプロセスがあると思ってください。
つまり、すぐに解決、快方へ向かうわけではないのです。
それを4つに分けてみます。
ここで、期待とあきらめの心理、という書籍から、一部文言を抜粋したいと思います。
4つのプロセスとは、

まずは初めのプロセスは、「期待」でいっぱいの状態です。
これを操作的期待と呼びます。
純粋に大きく育って、というような期待ではなく、自分の代わりに出世して、みたいな身勝手な期待です。
次に、2つ目のプロセスは、期待の鈍化。
つまり、自分が持つ期待に対して、行き詰まりを感じて、うまくいかないな、と感じるようになります。
ここでの行き詰まりの定義をお伝えします。
これは、操作的期待の行き詰まりということで、「子供が親の思い通りにならず、親の操作的期待に対し、拒否・拒絶をすることで、親の思いが子供にうまく伝わらなくなること。」です。
この思い通りにならないことに対して、物分かりの良い人なら、「私の期待に何か問題でも?」と内省するかもしれませんが、多くの場合は、原因を相手に求めてしまいます。

つまり、聞き分けのない子供、と判断するとか、言うこと聞かないと恐ろしいことが起きるわよ。と脅す場合もあります。
それでも聞かなければ、先生とかカウンセラーのところへ連れていかれるかもしれません。
アダルトチルドレンは、このような批判や脅しに屈してしまったということになります。
ただ、ここで無視したり、言い返したりしていると、親にも何らかの気づきがあるかもしれない、ということになります。
ただ、それも心の成熟度によって、なかなか理解できない場合も多いと思います。
次に、3つ目のプロセスとしては、あきらめ、です。
つまり、最初の自分の身代わりのような操作的期待をあきらめ、本当にその子が生き生きと成長することを望むようになる、ということです。
もう少し具体的に言えば、
二つ目の行き詰まりを通して、「親の操作的期待が明らかになることで、コントロール可能となり、操作性が弱まり、他方で親が一般的に持っていると考えられる『子供への純粋な思い』が活性化され、増大していく」ということです。
つまり、期待をかける人の自分自身の思いと、期待をかける相手との区別をつけ、心を整理していくことで、私とあなたは違う人間なのね。と気づけば、しつこく期待を迫ることもなくなるということでしょう。
そして、最後は、ありのままを認める。ということです。
もうそこには期待など頭になく、今の目の前のあなたが楽しければそれでいいのだ、と考えられるようになるということです。

このプロセスを見てわかることは、どこかの地点で、行き詰まりを感じないことには、先には進めないということです。
つまり、プレッシャーに悩んでいるこの時間も、決して無駄ではない、ということです。
ただ、あまりに適応力を発揮して、一つ目のような操作的期待にひたすら応えていたとしたらどうなるでしょうか?
きっと、その操作的期待はずっと続くことが想像できます。
だから、期待を受けているほうの対処法として考えられるのは。
まずは、操作的期待かどうかを判断できるようになること、だと思います。
それを言葉で出さなくてもいいと思うのです。
「あ、これは操作的期待なんだな」と、気づくだけでもいいのです。
そうすれば、目の前の人は、操作的期待を持ちやすいから、誘導してしまうような発言は極力控えよう、などと予防ができるようになります。
それでも、相手があきらめずにしつこく操作的期待を押し付けてくるならば、きっと自然と冷たくあしらうようになるでしょう。
それがプロセスの二つ目の、行き詰まりを感じて、さらに、みっつ目のあきらめまで到達するかもしれません。
とにかく、操作的期待に従っていると、その先には進めないということです。
無視してもいいし、言い訳をして離れてもいいのです。
操作的期待に従わない、という決意をしたらいいと思います。
また、あなたが親や先生などで、操作的期待をしていると思うなら、相手を従わせることに、夢中になる前に、なぜ私は操作的期待をしてしまうようになったのか?を必死で自分で考える必要があります。
自分の課題を誰かになすりつけてしまっていないか、考えてみましょう。
いかがでしょうか。
期待に沿おうとする心理
同じ親でも先生でも、言うことを聞く子供もいれば、自由にやっている子供もいます。
それは元々の性格といってしまえばそれまでですが、その心理の違いを考えてみましょう。
操作的な期待をかけられて、「何それ、やりたくない」と答えられるか、言われる通りにやるのか、の違いは、まずは、受け取る方が、期待について理解しているか、いないかが大きく違うと思います。
まさか、操作的期待とは知らなくても、「何かそれは違う」、とか、「あの人に助言されると嫌な気持ちになる」、と気づくことは、このような間違った期待を、はねのけるための最初の一歩です。
今までは操作的期待など知らなかった人も、これからは、これは操作的期待だ、などと気づくことができるようになるでしょう。
知っていてやるのと、知らないでやるのはおお違いです。
そこは大きな一歩がすでに進んでいると思ってください。
そして、次のステップとして、知っていても操作的期待を受け止めてしまうのであれば、自分の中に、迎合的な自分がいないか、もしくは、承認欲求が強いのではないか、などと内省してみることもお勧めします。
いかがでしょうか。
どんな自分がいいのか?を考えます。
操作的な期待から逃れ、自分らしい自分を生きていくにはどうしたら良いのか?について
ここでは考えていきたいと思います。
もし、先ほどのよっつのステップが成功し、今までのやり方に、行き詰まりを感じたならば、お互いの態度は明らかに変わっていくでしょう。
反抗期で散々暴れまわった子供に対応するような、少し冷めたような態度を前にすると思います。
そこまで来たことは、素晴らしいことです。
ただ、慣れていないことから、また昔のような変な期待を掛け合うという、病的なやり取りを懐かしく感じて、元に戻ってしまう危険もあるのが、この時期だと思います。
そこで、あなたが自ら望んで親の操作的な期待に沿わないと決意し、それなりに相手にも伝わって、効果が出てきたとします。
そのさきの生き方は、それぞれが自分で見つけていくのですが、考え方をお伝えしたいと思います。
ここで、期待とあきらめの心理、という書籍から、一部抜粋したいと思います。
特に外的な環境に対しての「親の強い操作的期待」にみずからを合わせていきてきた子供にとっては、まさに「命のねじ曲げ」と言われるような状況にあり、どこかで親の期待に「沿えない」、「沿いたくない」という思いがあるが、それが押し込められたまま、成長してきているのである。
その命のねじ曲げが、親の期待のあきらめという環境の変化により、再び子供が「命ののびやかさ」を取り戻していき、みずからの成長を始める時期であると考えられる。
そこでまず「迎合的な自分」が変わるためには、親の期待に沿わないことを実行することである。
それには、親の期待に対し、「拒絶する能力」が形成されて来ることが大切であり、親の期待を絶対的なものとしてではなく、拒絶したり無視したりできることを、実感として体験していく必要がある。
親の操作的期待を拒絶し、わがままな自分を形成していくことにつながるのである。
この諦めの時期において、子供は本当の自分を少しづつ感じ取れるようになるのであるが、迎合的な自分がなくなれば、自然にその奥から本当の自分が出てくるというものではない。
つまり、親の期待に沿って、迎合的にいきてきた自分もまた本当の自分の一部であり、迎合的な自分を生かしながら、それを通して少しでも本当の自分がひの目を見ることができるようになるのであり、迎合的な自分を活用しながら、少しずつ本当の自分が形成されていくのである。
ということです。
いかがでしょうか。
まとめ
まとめますと、誰かから期待をかけられてつらい人は、まずその人の操作的期待に気づくことです。
ただし、相手に気づいてもらう必要はありません。
わからせようとするのは、間違いなく「期待」です。
それを使っている人は、それを当たり前のように使っているのですから、指摘しても気づくことはないからです。
無意識の領域なのです。
そして、自分で操作的期待に気づき、嫌われたくない、認められたいという承認欲求よりも、自分らしく生きることが大事だと自分で思えるならば、その操作的期待を拒否したり、無視をする。
そのことで、相手との関係性に変化が生まれ、冷めた感じ、期待されない寂しさなどを一時的に感じるかもしれませんが、それは慣れ親しんだ負の感情を懐かしく感じているだけなので、ぜひ自分との会話で元に戻らないように工夫してください。
また、誰かを心配しているのに迷惑がられていると思っている人は、まずは自分と向き合ってください。
誰かを変えようとするのは、良くも悪くも、自分の支配下に相手を置いておきたいという心理があるからです。
そこに気づかずに、どうやったら自分の言うことを聞くかに終始すれば、きっとあなたの周りには誰もいなくなるでしょう。
そして、期待する側、期待される側のどちらにも共通して言えることは、お互いに自分が成長するためのチャンスを与えられていると、受け取ることではないでしょうか。
そしてその学びは、自分の代わりに誰かがやるべきなのではなく、自分で取り組むしかないのです。
それは、あなたに期待をかける人も同じです。
今回参考にした、期待とあきらめの心理という書籍は、特に先生や親に読んでもらいたいのですが、視点を変えたら、期待をかけられる側が、相手を知る意味で非常に役立つと思います。
ぜひ、期待に悩んでいるかたは読んでみてください。
そして、最後に大切なコメントをありがとうございました。
この場でお礼を言わせてください。

人に期待をするな。
この言葉によって、多くの人が救われることを願っています。
最後にこの言葉も、覚えておいてください。

「操作的期待に従わない」です。
以上で、期待という病を終わります。
ありがとうございました。