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2021年12月17日金曜日

凍りついた感情を取り戻すワーク

 





私たちにとって、「大人になる」とはまさに動画で言ったように「6つの神話」をマスターすることではないでしょうか。


1.泣いてはいけない

2.悲しみを置き換える

3.一人で悲しみに浸れ

4.つよくあれ

5.忙しくせよ

6.時間がすべてを癒す

まるで軍隊のようなルールです。

その結果、大人になって「感情がわからない」と本気で悩む人がいかにおおいことか……と言う話です。

周りにも同じような教えを受けた人ばかりなら、余計に6つの神話を磨くようなアドバイスを受けて、さらに辛くなります。

このように凍ってしまった心を解凍するには、手紙を書く、と言う方法があります。

これは、自分のために書くものです。

要素としては、このような内容が含まれていると、整理につながると言うことです。


謝罪

謝罪とは、「後悔の気持ちが込められた過失、または非礼の容認」と言うことです。

これは、生きている人でもなくなった人にでも良いのですが、相手が生きているなら、対面して謝ると自分のためにも、相手のためにもなるでしょう。

しかし、暴力などで傷つけた場合は、相手が恐れている可能性があるので、間接的に伝える方法もあります。

また、手紙を書くことで、心を整理することができます。

あくまでも人を操作するための謝罪ではなく、自分の未完の感情を整理するために行うと、自覚しておくことが重要です。


許し

許しとは諦めること、と書いてます。

つまり、自分が憤りを感じて、消耗してトラブルが続くことを、やめにするために、期待しても仕方のない人への期待を諦めると言うことです。

これは、傷つけられた記憶によって、さらに自分が傷つくことをやめにするという意味でもあります。

憤りという精神の呪縛から自由になるということです。


楽しかった思い出

ネガティブな記憶がおおい場合、なかなか楽しかった記憶など思い出せないと思います。

ただ、これも相手のためではなく、自分が情緒的に自由になるために、「そうは言っても良いこともあった」と思えるようになりたい、という意味です。

自然に「あの言葉には感謝をしている」と思えるようなことがあれば、人間性はぐんと成熟していることに気づくでしょう。


「さよなら」

手紙で重要なのは、最後にさよならを加えることです。

これは、「物理的に離れなさい」ということではなく、「過去に縛られていた自分にさよなら」という意味でもあります。

「こうなったら自分のために生きるぞ」とか「残りの人生は楽しむぞ」と思えるように、さよならを言います。


いかがでしょうか。

何度も書き直して、読み直すことが大事だと思います。

書籍にはいろんな例が書いてあるので、興味がある方は「子どもの悲しみによりそう」という書籍をどうぞ。

このように、とにかく訳もなく教え込まれた「6つの神話」について疑問を持って、自分たちなりにしっかりと分析する必要があると思います。

そして、納得できないことは「できない」で良いのです。

一回でも論破したら、きっと同じような神話は二度と言わなくなると思います。

ぜひ、手紙を書いてみてください。そして、できたら誰かに聞いてもらってください。



2021年12月13日月曜日

当たり前のように湧き出るネガティブ思考ー自動思考ー


 

私たちは、当然だと思っていることが「自分特有」の価値観であることも多くあります。

よく思うのですが、こうした自分特有の価値観を、少しづつ常識に沿って修正するのが、多くの人の生き方ではないかと思います。

でも、常識が素晴らしいということはなく、間違った認識も多くあります。

こうした間違った認識……つまり、自分を苦しめる価値観を持っていると、当然ですが「生きにくく」なります。

このような自分を苦しめる価値観を修正していくのが今回のテーマです。


その中で、今回は当たり前のように湧き出るネガティブ思考について、取り上げたいと思います。

これは、認知行動療法でいう「自動思考」と言います。

これが幼少期から使っていると、当たり前すぎて気づくことすらできないのです。

あなたには当てはまるものがないか、確認してみてください。

1.白黒思考

これはゼロか100かというような考えです。「成功しなければクズだ、ゴミだ」というような人は結構多いです。

当然ですが、成功が100で失敗は99あるとするなら、ほとんどが失敗なので、どこかで挫折をします。


2.過度の一般化

たった一回の失敗を、「いつも失敗する」というように大げさに捉えてしまう考え方です。

「あなたはいつもそうよね!」などというと、言われた方は許せなくなります。。


3.心のフィルター(サングラス)

自分の見たい部分だけ見て、見たくない部分はスルーしてしまいます。

マイナス思考の人は、マイナス部分だけ見ていることになります。


4.マイナス化思考

何事も悪く受け止めます。


5.レッテル貼り

1つの結果だけで、人間性など 全てがそうだと決めつけます。

有名人が一回の過ちを犯して、何年もそのレッテルを貼られて復帰できないようなことも多くあります。


6.結論の飛躍

決まってもないのに、最初から悲観的な結論を予測します。

a……独断的推論(勝手な思い込み)

b……先読みの誤り(間違った否定的な予測をしてしまう)


7.拡大視と過小評価

失敗を現実よりも大きく捉えたり、成功を「大したことない」と喜ばないなど。


8.感情的決めつけ

「自分が嫌いだから相手も嫌いだ」というような勝手な思い込み。


9.べき思考

根拠もないのに「しなくてはならない」「してはならない」と決めつける。


10.自己中心思考

なんでも自分に関連づけます。

ひそひそ話をしているのを見て、「自分のことを言っている」などと勝手に考えてしまいます。


いかがでしょうか。


動画でも言いましたが、このような思考はクッキーの金型のように、一度できあがると修正はしにくいです。そもそも認知の歪みに気づかない人がほとんどです。

このような情報とか第三者の冷静なアドバイスを得られる人は、幸せ者です。

だからこそ、そのチャンスを不意にせずに生かしてほしいです。



2021年11月22日月曜日

傷つかないための3つの方法

 


私たちが傷ついてしまうのは、傷をつけられるような言葉などを受けた時に、それをそのまま受け取った上でもともとある「私が悪い」と言うルールを適用しているからではないかと思いました。

しかし、本来は傷つけるようなことを言う人が失礼なわけで、まずはそれを受け取らないことが大切だと思います。

そこで、こんな時に傷つかないための3つの方法として


1. 傷つく人から物理的に離れること


まず1つ目は、傷つく人から物理的に離れることです。

とはいえ、突発事故のように、突然上から降ってくるようなこともあるでしょう。

その時は「危なかった。でも怪我がなくてよかった」と振り返った上で、「今度からはここは通らないようにしよう」と反省するように、同じ人や同じタイプの人には気をつけるように、自分なりにルールを決めていくと良いと思います。

こうして、突発事故を減らす方法を試す(傷つけられる機会を減らす)と、事故(傷つくこと)も減るでしょう。

また、自分が傷つくのを防ぐための行動ができないのは、自分に不健全な部分があると思ってください。

生きるものは、それを害する対象から逃げる、もしくは退治するのが当たり前であり、その機能がなくなると、当然ですが生きることが難しくなるからです。

そこを働かせるように努力することが大事です。


2. 明らかに「傷つける人だけが悪い」ことを認識し直すこと


2つ目は、明らかに傷つける人だけが悪いと言うことです。

「私が悪い」と言うのは、幼少時などに親などが自分を正当化しようと、「あなたが原因(で私は不幸になった)」などと言う、しつけと言う名前の呪いをかけられたからでしょう。

親などは全く気づいてないと思いますが、こんな小さな自分のはけ口が、子供の一生を変えるほど影響しているとは、と言うことです。

よく「傷つけた方は覚えてない」と言いますが、全くその通りです。

ある先生が「いじめっ子は容赦無く排除する」と言い切ってました。

つまり、話しあいとか更生とかではなく「他の人に害を与える人」として扱うのです。

そうなんです。本来は傷つけた方が悪く、言い聞かせたところで反省などしないのです。

しかし、家庭内では平気で傷つけるような言葉を使い、それを「しつけ」などと正当化します。

いかに子供を一発で傷つけようかと、無意識で企んでいる親も多いです。

もし、このようなことが学校で行われていたら、傷つけた方は猶予なく「排除」されるのです。

でも、家庭という密室では、何をしても排除されないので、強い人がどんどん傲慢になっていくのです。


3. 傷つけられながらも生きてきた自分に自信を持つこと


最後に3つ目は、傷つけられながらも生きてきた自分に自信を持つことです。

あなたが誰かをいじめていたり、復讐に燃えてないなら、あなたに害を与えた人の悪影響を受けずに、純粋なまま生きてきたと言うことです。

これは、なかなか難しいです。強くないとできないと思います。

自分を守るために誰かをいじめる。これが人を傷つける人の本当の原因です。

そんなことは、自分の役には立たないはずです。


いかがでしょうか。

ぜひ、自分を傷つける人との接触を、ゼロくらいまで減らすこと。

また、傷つける人と傷つけられる人は、どちらが悪いとかではなく、間違いなく傷つける人が悪いと再認識して自信を持つこと。

そして、いじめられながらも、歪まずに生きてきたことにも、自信を持つことです。

ぜひ、ピンチの際には思い出してください。

2021年11月20日土曜日

愛着理論:フォーナギーのメンタライジング

 


愛着理論といえば、ボウルビィが有名ですが、彼を始点に多くの人が愛着理論を成長させていきました。

メアリーメイン、そして今回のフォーナギーです。

フォーナギーはロンドン大学の新米講師だった時、ボウルビィが客員教授として出会い、講義を受けることになったそうです。



メンタライジング

メンタライジングとは、このように説明してます。

世界に関する体験を仲介する「心」という物があるということを悟るプロセス

ということです。

これは、「私はこう感じている」というような自己認識ではなく、心全般に関する知識のことだそうです。

また、反省機能という言葉も使用してます。


反省機能

反省機能とは、自分が悪いと責めることではなく、自分自身や他者を心理的な深みを持つ存在としてみることができるということです。

これは、以前「意味まで考える」という解釈をしたことがあります。

その人の表面的な態度とか言語だけでなく、「その時あの人はどんな状況でどんな具合になって、あのような言葉を吐いたのか」というところまで深めて理解しようとすることです。

思慮深さとか冷静さなどが必要になります。

すごく難しいのですが、これができる人とできない人では、同じ問題を前にしても、その人に及ぼす影響やその後の展開、将来まで大きく違ってくるのは想像がつきます。


このような反省機能を備えた人は、強いメンタライジング力を持って、問題を解決していくことが、低い人よりも可能になります。

これは、カウンセラーなどの支援者にも言えることで、表面的な言葉などに反応ばかりする人は、話を深めたり、目の前の人が言葉にできない言葉を受け取ることは難しくなります。

では、どのような人が強いメンタライジング力があるのかを、お伝えします。




強いメンタライジング力のある人の特徴


1. 心理状態というものの本質に気づいていること

  1. 自分自身や他者に関する私たちの理解は、いつも決まって不完全だということ。
  2. 人は、痛みを最小限に抑えるために心理状態を修正するかもしれないということ。
  3. 人は、内的状態を意識的に偽るかもしれないということ。
  4. 一定の状況においては、一定の心理的反応が予測できるということ。

2. 行動の根底にある心理状態を詳しく識別しようと心がけていること

  1. 行動について、信念・感情・願望の見地からもっともな説明ができること。
  2. 他者に関する私たちの解釈が、自分自身の心理状態の影響を受けているかもしれないということを理解していること。
  3. ある状況に関する感情が、その状況の客観的見地とは一致していないかもしれないということを悟っていること。

3. 心理状態の「発達的」様相を認識していること

  1. 昨日感じたことは、今日あるいは明日感じることとは異なっているかもしれないということ。
  2. 親の行動は、親自身の親の行動により形作られていると同時に、その子どもの行動を形作ってもいるということ。
  3. 児童期の視点は、しばしば成人としての理解の見地から修正される必要があるということ。

4. 面接者に関連する心理状態に気づいていること

  1. 話さなければ治療者は患者が知っていることを知ることはできないということ。
  2. 治療者は、患者の物語に対し、治療者自身の固有の情緒的応答をするかもしれないということ。
  3. 治療者の成育史とその結果としての心理状態は、患者のそれとはかなり異なっているかもしれないということ。
つまり、人間は不完全であり、それが治療者や親などの立場だったとしてもそれは「例外ではない」と気づくことで、自分への理解や他者への理解が深まることにつながります。

これは、さっきも言いましたが「だから仕方がない」とか「だから我慢する」という自己犠牲を強いるものではないということです。「そう思ってしまうのも、愛着の歴史に原因があるかもしれない」と考えるのが、メンタライジング力ではないでしょうか。


このような高い反省力を持つ親は、そうでない親よりも3から4倍以上、安定型の子供を育てる可能性があると、追跡調査によって示したそうです。

また、強い反省力には、不利な愛着史のせいでそのまま行くと「不安定型」の子供を育てるところを、その世代にわたる悪循環を壊す力もあると言ってます。

愛着と精神療法より


2021年11月10日水曜日

すぎた過去をやり直そうとする『反復強迫』

 


反復強迫とは、過去にトラウマの原因となった対象や出来事を、本来なら遠ざけるものですが、反対に同じような体験を求めているかのように、そして強迫的に……後ろから追い立てられるように繰り返してしまう試みです。

親から言われて傷つたことを、子供にも同じように言ったり、父親のような人は嫌だと思いつつ、いつも付き合う人は父親そっくりだったりするのも反復強迫と言えるでしょう。

なぜ、辛い結果が訪れるとわかっているのに、私たちは反復強迫をしてしまうのでしょうか。

今回は、「他人が気になって仕方がない人たち」の一部を引用します。


なぜ、人は罪悪感と生まれ育った「原家族」の状況を再現したいという、内なる欲求をもつのでしょうか?原家族が苦痛を与えるものだったにもかかわらず(子供自身、苦痛を与える場所として覚えてないとしても)、なぜ、その痛みを繰り返し受けるようなことを自分からしてしまうのでしょうか。

第一の理由は、もしも自分が生まれ育った状況をもう一度再現できるなら、私は今度こそちゃんとそれを正しくやれる、痛みを癒せると無意識に考えてしまうからです。

共依存者には時間をさかのぼり、過ちを正したいという強烈な欲求があります。

私たちだれもが、過去をやりなおしたいという欲求をある程度はもっています。こういった気持ちはありふれたものですし、それ自体は悪い願望ではありません。私たちは過ちから学び、正せるものは正します。けれども共依存者は、これを極端なまでに実行するのです。もともとの問題を正さなければいけない、もともとの傷を癒さなければならない、といういうのです。

第二の理由は、ひどい家族になってしまった原因は私にあるのだから、私は罰せられなければならない。痛みを感じて当然だ、と考えてしまうからです。私たち治療・救助者は、「あなた自身がこうした問題を引き起こしてるんですよ!痛みしかももたらさない状況に、あなたが、あなた自信を故意においているんですよ」といいたくなることが、たくさんあります。でも、それを私たちの口からはいわないようにし、患者自身が気づくようにしむけるのです。

あやまった罪悪感に対する償いをした、という隠された欲求の他に、共依存者は実際にみじめさにとらわれていることがあります。共依存症の主要な症状の一つは、不健康なのめり込み行動「嗜癖(アディクション)」ですが、共依存症者は、心的な苦痛に嗜癖することもあるのです。どれほどみじめであろうと、すくなくともそれは慣れ親しんだものです。苦痛の中にも心地よさがあるのです。

第三の理由は、安全な場所へのあこがれがあります。

原家族は、実際には安全なものではなかったかもしれませんが、それでも共依存者にとっては子供時代の避難所……その幼い人間が知っていた唯一の安全な場所……だったのです。

苦痛に満ち、みじめで、生命がおびやかされることさえあっても、その人間関係は、唯一の安全な場所なのです。共依存者にとっては「これが家族だ。これはもう一度あやまちを正すチャンスなのだ」と見えるのです。

こうして共依存者は、二度と我慢すまいとかつて誓ったのと、まったく同じ人間関係におちいります。昔からの同じ物語が、何百万というバリエーションをつけて、何度も何度も繰り返されるのです。

(途中略)

自分の原家族を再現したい、という欲求は、共依存症者の中では想像もつかないほど強力です。パートナーが反復強迫の性向をもっていないときでさえ、家族を再現するのに必要なようにとらえられるのです。これは共依存症者がおちいる恐ろしい罠です。

(途中略)

今はあなたにも、あなたの過去がどれだけあなたの現在をガッチリと掴んでいるか、お分かりになるでしょう。人はだれしもその人独自の歴史によって形作られているのです。


 

いかがでしょうか。

確かに、自分を痛めることで原因不明の罪悪感を償うと言った考えは、共依存者の多くがもっている特徴かもしれません。

また、一番のような「どこかでやりなおしたい。今ならできる」というのも、多くの人が陥りやすい罠だと感じます。

特に、自分が幸せだと感じた時に、「今までの負の歴史は嘘だったと思いたい」という欲求が出てきて、せっかく掴んだ幸せも握りつぶされてしまうようなことも、あると思います。

このように不幸な時期は辛いですが、それ以上に気をつけたいのは「幸せと感じた時期」です。この時期は非常に脇が甘くなります。すると、以前のままの共依存の支配者は、するするとあなたの中に、また入って来るのかもしれません。

幸せだと感じても、冷静に現実を見る目は鍛えておかないと、です。

2021年11月3日水曜日

善意の善人ほど始末に困るものはないという話

 


悪人礼賛

中野好夫


以下引用します。


ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との2つにつきる。


考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼく自身の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑をかけられた苦い経験は数限りなくあるが、聡明な悪人から苦杯を嘗めさせられた覚えは、かえってほとんどないからである。悪人というものは、ぼくにとっては案外始末のよい、付き合い易い人間なのだ。という意味は、悪人というのは概して聡明な人間に決っているし、それに悪というもの自体に、なるほど現象的には無限の変化を示しているかもしらぬが、本質的には自らにして基本的グラマーとでもいうべきものがあるからである。悪は決して無法でない。そこでまずぼくの方で、彼らの悪のグラマーを一応心得てさえいれば、決して彼らは無軌道に、下手な剣術使いのような手では打ってこない。むしろ多くの場合、彼らは彼らのグラマーが相手によっても心得られていると気づけば、その相手に対しては仕掛けをしないのが常のようである。


それにひきかえ、善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい。


かりにぼくがある不当の迷惑を蒙ったと仮定する。開き直って詰問すると、彼らはさも待っていましたとでもいわんばかりに、切々、咄々としてその善意を語り、純情を披瀝する。驚いたことに、途端にぼくは、結果であるところの不当な被害を、黙々として忍ばなければならぬばかりか、おまけに底知れぬ彼らの善意に対し、逆にぼくは深く一揖して、深甚な感謝をさえ示さなげればならぬという、まことに奇怪な義務を員っていることを発見する。驚くべき錦の御旗なのだ。もしそれ純情にいたっては、世には人間40を過ぎ、50を越え、なおかつその小児の如き純情を売り物にしているという、不思議な人物さえ現にいるのだ。

だが、40を越えた純情などというのは、ばくにはほとんど精神的奇形としか思えないのである。


それにしても世上、なんと善意、純情の売り物の夥しいことか。ひそかに思うに、ぼくはオセロとともに天国にあるのは、その退屈さ加減を想像しただけでもたまらぬが、それに反してイアゴーとともにある地獄の日々は、それこそ最も新鮮な、尽きることを知らぬ知的エンジョイメントの連続なのではあるまいか。


善意から起る近所迷惑の最も悪い点は一にその無法さにある。無文法にある。警戒の手が利かぬのだ。悪人における始末のよさは、彼らのゲームにルールがあること、したがって、ルールにしたがって警戒をさえしていれば、彼らはむしろきわめて付合いやすい、後くされのない人たちばかりなのだ。ところが、善人のゲームにはルールがない。どこから飛んでくるかわからぬ一撃を、絶えずぼくは恟々としておそれていなければならぬのである。


その意味からいえば、ぼくは聡明な悪人こそは地の塩であり、世の宝であるとさえ信じている。狡知とか、奸知とか、権謀とか、術数とかは、およそ世の道学的価値観念からしては評判の悪いものであるが、むしろぼくはこれらマキアベリズムの名とともに連想される一切の観念は、それによって欺かれる愚かな善人さえいなくなれば、すべてこれ得難い美徳だとさえ思っているのだが、どうだろうか。


友情というものがある。一応常識では、人間相互の深い尊敬によってのみ成立し、永続するもののように説かれているが、年来ぼくは深い疑いをもっている。むしろ正直なところ真の友情とは、相互間の正しい軽蔑の上においてこそ、はじめて永続性をもつものではないのだろうか。


「世にも美しい相互間の崇敬によって結ばれた」といわれるニ-チェとワーグナーの友惰が、僅々数年にしてはやくも無残な破綻を見たということも、ぼくにはむしろ最初からの当然結果だとさえ思えるのだ。伯牙に対する鍾子期の伝説的友情が、前者の人間全体に対するそれではなく、単に琴における伯牙の技に対する知音としてだげで伝えられているのは幸いである。伯牙という奴は馬鹿であるが、あの琴の技だけはなんとしても絶品だという、もしそうした根拠の上にあの友情が成立していたのであれば、ぼくなどむしろほとんど考えられる限りの理想的な友情だったのではないかとの思いがする。


友情とは、相手の人間に対する9分の侮蔑と、その侮蔑をもってしてすら、なおかつ磨消し切れぬ残る1分に対するどうにもならぬ畏敬と、この両者の配合の上に成立する時においてこそ、最も永続性の可能があるのではあるまいか。10分に対するベタ惚れ的盲目友情こそ、まことにもって禍なるかな、である。金はいらぬ、名誉はいらぬ、自分はただ無欲でしてと、こんな大それた言葉を軽々しく口にできる人間ほど、ぼくをしてアクビを催させる存在はない。


それに反して、金が好きで、女が好きで、名誉心が強くて、利得になることならなんでもする、という人たちほど、ぼくは付合いやすい人間を知らぬのだ。第一、サバサバしていて気持がよい。安心して付き合える。金が好きでも、ぼくに金さえなければ取られる心配はないし、女が好きでも、ぼくが男である限り迷惑を蒙るおそれはない。名誉心が強ければ、どこかよそでそれを掴んでくれればよいのだし、利得になることならどんなことでもするといっても、ぼくに利権さえなければ一切は風馬牛である。これならば常に淡々として、君子の交りができるからである。


金がいらぬという男は怖ろしい。名誉がいらぬという男も怖ろしい。無私、無欲、滅私奉公などという人間にいたっては、ぼくは逸早くおぞ気をふるって、厳重な警戒を怠らぬようにしてきている。いいかえれば、この種の人間は何をしでかすかわからぬからである。しかも情ないことに、そうした警戒をしておいて、後になってよかったと思うことはあっても、後悔したなどということは一度もない。


近来のぼくは偽善者として悪名高いそうである。だが、もしさいわいにしてそれが真実ならば、ぼくは非常に嬉しいと思っている。ぼく年来の念願だった偽善修業も、ようやく齢知命に近づいて、ほぼそこまで到達しえたかと思うと、いささかもって嬉しいのである。


景岳橋本左内でないが、ぼくもまた15にして稚心を去ることを念願とした。そしてさらに20代以来は、いかにして偽善者となり、いかにして悪人となるかに、苦心修業に努めて来たからである。それにもかかわらず、ぼく自身では今日なお時に、無意識に、ぼくの純情や善意がぼくを裏切り、思わぬぶざまな道化踊りを演じるのを、修業の未熟と密かに深く恥じるところだっただげに、この定評、いささかぼくを満足させてくれるのだ。


もっとも、これはなにもぼくだけが1人悪人となり、偽善者たることを念願するのではない。ぼくはむしろ世上1人でも多くの聡明なる悪人、偽善者の増加することを、どれだけ希求しているかしれぬのである。

理想をいえば、もしこの世界に1人として善意の善人はいなくなり、1人の純情の成人小児もいなくなれば、人生はどんなに楽しいものであろうか、考えるだけでも胸のときめきを覚えるのだ。その時こそは誰1人、不当、不法なルール外の迷惑を蒙るものはなく、すべて整然たるルールをまもるフェアプレーのみの行われる世界となるだろうからである。


されば世のすべての悪人と偽善者との上に祝福あれ!


2021年10月27日水曜日

トラウマ体験によってつけた仮面を外す方法


動画で5つの仮面をご紹介しました。



これがトラウマによる5つの仮面です。

  1. 逃避する人
  2. 依存する人
  3. いつも忙しい人
  4. 操作する人
  5. 頑固な人
なぜ、これだけの種類になるかというと、年齢によって発達段階がありますが、その時期にどちらの親から傷を受けたかによって、仮面が変わってくるようです。



では、どのように仮面をつけたのでしょうか。

1. 自分自身であった


生まれた時は誰もが自分自身であります。ただ、動画でも言ったように、著者によると妊娠中でも親のメッセージが届くそうです。だから、母親のお腹の中でトラウマを受けた人は「逃避型」となります。

2. 自分自身であることを否定される


『親などの期待する人間になれ』と強制されます。しかし、そこには親のエゴしかありません。

3.当然ですが反抗します


しかし、親の性格などによっては、全く聞く耳を持たない人も多いでしょう。
また、それが良いことだと信じているのでどうしようもできません。

4.あきらめる(仮面をかぶる決意をする)


反抗を聞き入れてもらえない場合は、絶望です。そして、自分以外の仮面で生きていこうと幼い時期に決意してきたはずです。



そして、大人になるとこの仮面によってトラブルが連発するのです。

逃避の仮面の人は、いつもパニックになるような事件が起きます。そして、逃げます。

依存の仮面の人は、いろんな人にしがみつきますが、結果的には孤独になります。

忙しい人は、世話をしたり義務を果たしても、当たり前としか受け止めてくれません。

操作する人は、別離や否認をされないために、リーダーとしてやってきたのに、最後は文句が出てきて外されます。

頑固な人は、冷たくされたくないからポーカーフェイスにしているのに、最後はとても寂しく一人になってしまいます。

この仮面はかぶればかぶるほど、厚くなります。

そして、繰り返すほど自分の本意とは反対の結果を生みます。

なぜなら、最初に仮面をかぶったのは『本当の自分を諦めたから』です。

つまり、仮面を外したいなら、先ほどのプロセスの逆を行くと良いのです。


1. 仮面に気づく


今まで無意識にかぶっていた仮面に気づくことからスタートです。

2. 反抗する


反抗するというと誤解が生まれますが、本当の自分を「今度は」諦めないことです。
そのためには、反抗することもあるでしょう。大人のあなたならできるはずです。

3.周囲のエゴの支配から解放される


今までの人間関係はきっと仮面をかぶったあなたが好きな人たちです。
でも、それは本当の自分ではないので、さよならする人も出てきます。なぜなら、仮面をかぶることを強制するからです。

4.「本当の自分」を受容してくれる人を探す


「自分の思い通りになれ」という人から、「そのままでいい」と言ってくれる人を探します。それには、1番の気づきがないと始まりません。



とても多くの人は、このように自分を都合よく支配していた人に、「わかってほしい」と願います。
でも、それは無理です。

なぜなら、全く反対の立場だからです。

そのような人の考え方を変えさせようとするのは、それこそ支配です。

合わないなら無理して一緒にいなくて良いのです。

ぜひ、自分の仮面は何なのか、一度考えてみてください。


2021年10月26日火曜日

「憎しみ」の感情を克服する方法

 


今回は、動画にはしないと思いますが人間の持つ「憎しみ」について詳しく書いた本があったので読んでみました。

まだ、まとまってないのである箇所を抜粋したいと思います。


それが、「憎しみ」に対する10の戦略というものです。

トランプ前大統領は、このような手法を使って、対立する他国との交渉などを行なっていたように感じます。彼が取り乱したり、憎悪の念があからさまに見えることはほとんどなく、いつも冷静だったように受け止めています。

それだけに少し高度というか、かなりビジネスっぽいので、動画には向かないと思いました。

著者は、憎しみという感情は、「心の核兵器」と呼びました。

だからこそ、この核兵器を爆発させない方法を、考えることが大事だということです。

人によって違うと思いますが、「憎しみ」によって、関係を絶ったり、会社を辞めることもあります。時には殺人事件なども起こしてしまうほどです。

以下は抜粋になります。



戦略とは何か


最近、人間の情動について数多くの科学的な発見があったおかげで、そこから10の戦略を導き出すことができる。これらをまとめて実行すれば、ふくらもうとする憎悪を押さえつけ、すでに燃え出した憎悪を消すことができるだろう。10の戦略とは、明確にする、共感する、伝える、交渉する、教育する、協力する、冷静に見る、追い詰められない、敵のふところに飛び込む、復讐ではなく正義を求める、である。これらはいずれも、高等神経システムによって原始神経システムの暗い力を抑制し、憎悪の悪循環を終わらせることを狙いとしたものだ。
(説明すると、反応に任せるのではなく、自己コントロールによって統制することが大事なようです)

1. 明確にする

怒りや苦しみや脅威の原因を、できるだけはっきりと特定することである。事象別に扱うことのできる理性的な高等神経システムをはたらかせ、扁桃体をふくむ原始神経システムが固定観念によって決めつけるすきを与えない。この戦略は特に子供には重要である。子供がテストで悪い点を取ったら、「どこがわかっていないかいっしょに考えてみよう」と親は言うかもしれない。だが「お前にはがっかりだ」など小言ばかり行ったなら、子供の心のなかで原始神経システムの決めつけがはじまり、憎しみと自己嫌悪がしだいに大きくなっていくだろう。この第一の戦略は、複雑で詳細な分類ができる人間の能力を活用するものだ。実質的に無限の能力は人間の巨大な脳の驚くべき特性であり、これがあるからこそ、人間はもっとも高度で強力な社会的、精神的、科学的な体系にもとづいて文明をきずくことができたのである。

2. 共感する

「われらと、われら」の視点でものを見るには、たとえ同感できない相手にも共感しなくてはならない。共感と同感はちがう。共感とは他者の考え方や感じ方を理解しようとすることで、それを正しいと認めなくてもかまわないのだ。最悪の敵でも、その身になって考えることには意味がある。相手の動機がはっきり理解できれば、和解の機会が生まれる。そうでなくとも、相手を負かしたり先まわりしたりする最善の策を思いつく。相手の立場で考えるかぎり、愚かな敵対はありえないし、相手を怪物か何かのように忌み嫌うこともないだろう。脳の原始的な領域に支配を許さないから、ただの嫌悪が簡単に憎しみに変わったり、敵を人間でない「彼ら」とみなして、冷酷にたたきのめそうとしたりすることはない。(途中略)

3. 伝える

なぜ怒りや脅威を感じるのかを相手に明確に伝えれば、その気持ちを消すことができる。ここでも要点は明確にすることである。憎悪の恐ろしい一面は、怒りを人に伝えようとするときに、漠然とした一般論や固定観念からばかり話すと、ますます怒りが激しくなり、憎しみが募ることだ。これが「ヘイト・スピーチ」と呼ばれるものである。

4. 交渉する

こちらの動機を伝えるだけにとどまらず、可能な場合には、建設的かつ明確な案を提示して交渉し、衝突や怒りの原因を解消しよう。


5. 教育する

知識をたくわえ、それを人に伝えようつのりにつのった憎悪と偏見は、まったく無知から生まれる。個人、集団、文化についてくわしく知っていれば、固定観念から相手を見ることがなくなり、憎悪が避けられる。一般に、厳格で高度な教育は脳に良い作用をもたらす。(途中略)

6. 協力する

可能ならば相互の利益をはかって協力しよう。憎しみにかわって、信頼の絆が生まれるだろう。社会心理学の研究から、共通の目的を達成するために他者と手を結ぶと、原始神経システムの潜在意識のメカニズムがはたらき、「われら」と「彼ら」の分断が消えることがわかっている。他国から攻撃を受けて敵を撃退しようとするとき、国内の分裂が解消することがよくあるのはこのためだ。

7. 冷静に見る

過剰反応してはいけない。たとえば自分の怒りが妥当なものなのか、脅威はほんとうに重大なのかを冷静に分析しよう。これだけのことで、高等神経システムを稼働させ、原始神経システムを統制できる。

8. 追い詰められない

八方ふさがりで逃げ場がない状態に陥らないためには、これまでの7つの戦略をすべて実行する必要があるが、なかでも重要なのは伝えることと交渉することである。たとえば、仕事に満足していなかったら、そのことを建設的なやり方で人に知らせ、できれば改善してほしいと交渉する。手をつくしても状況が変わらなかったら、どこか別のところに機会を求めよう。あるいは頭を切り替えて、現在の不満を人間として成長するための試練ととらえるのもいい。


9. 敵のふところに飛び込む

理由はどうあれ、原始神経システムに支配され、敵意どころか憎悪にとらわれてしまったら、思い切って敵のふところに飛び込んでみる。冷戦の絶頂期に、アメリカの大統領はたびたび東側の指導者たちと膝を交えて対談した。首脳会談が解毒剤となり、プロパガンダに扇動されて東西の対立に油をそそいでいた偏見が解消した。敵と顔をつきあわせてみることでも、潜在意識のメカニズムがはたらきだして、「われら対、彼ら」の壁を壊し、原始的な情動をしずめられる。
環境にさらされるという意味で、この手法は自分だけでなく他者にも応用でき、とくに子供には重要である。どこの社会でも、大人は偏見や憎悪、虐待、暴力のない環境に子供を置いてやる必要がある。ただし影響の受けやすさは、子供によってまちまちである。子供は周囲の偏見や憎悪を吸収しやすい。子供の頃に劣悪な環境にさらされると、その悪影響が生涯にわたってつづきかねない。暴力や虐待などの大きなストレスにさらされた子供は、辺縁系に異常が生じる場合がある。そういう子は、ささいなことでも脅威とみなし、恐怖や怒りや憎しみで過剰反応する。あげくは暴力で対抗しようとする。それとは逆に、脅威にたいする辺縁系の反応が鈍くなる子供もいる。彼らは社会の規範を逸脱して罰せられても、なんとも感じない。(途中略)

10. 復讐ではなく正義を求める

復讐心を抱くと過去にとらわれる。(途中略)敵意をむきだしにして相手をたたきのめそうとするのではなく、公正な解決を目ざして決然と努力しなくてはならない。
ということです。

これを読んでいてトランプ前大統領が、北朝鮮を訪れたことを思い出しました。

相手の懐に飛び込むのは勇気がいりますが、唯一、心を閉ざした人が心が動くのは、彼のように勇気を持って同じ場所に降り立つことかもしれません。

2021年10月22日金曜日

複雑性PTSDを唱えたジュディス・L・ハーマンの「心的外傷と回復」から

眞子さまの症状として、注目された複雑性PTSDですが、どんな症状なのでしょうか。

今回は、タイトルの通り複雑性PTSDを唱えたジュディス・L・ハーマンの言葉をそのまま記載しようと思います。

彼女の信念とかパッションがそのまま伝わればと思います。また、書籍があまりにも高額なので、この思想を認知してもらうには、被害者や意識の高い人を含めもっと話題が広まる必要があると私は感じてます。その書籍が高額すぎて高いハードルになったらもったいないです。
何よりも驚きなのは、この内容は既成の診断がおかしいと異議を唱えるものであり、さらにはフェミニストの視点から伝えていることです。

つまり、以前にもお伝えしましたが、フロイトなどのヒステリー研究後の変化(男性社会の中での虐待の隠蔽)に対して戦う気満々なかたです。

組織にいると誰も本当のことが言えなくなったので、イライラした外側からぶっ壊すという感じでしょうか。

以下はジュディス・L・ハーマンの「心的外傷と回復」の一部引用になります。



 新しい診断名を提案する


大多数の人は、自由を剥奪されれば心の変化が起こるということに無知である。まして、これに理解のある人はいないも同然である。だから、慢性的な外傷に暴露されていた人に対する世間の目は冷たい。慢性的に虐待されたことのある人は、途方に暮れ、人の言いなりになり、過去から抜け出せず、どうしようもなく憂鬱になり、身体のあれこれの不具合を訴え、怒りを陰に籠らせたりするが、それに対して、身近かな人たちはどうもしてやれなくてただいらいらするだけに終わる。それだけならまだしも、かりに、被害者が倫理的価値に反し、地域社会の掟にそむき、対人関係において裏切りを犯すことでもあれば、いくら本人の意思に反して強制された場合でも、強烈な怒りの感情を巻き起こし、社会的死刑を宣告されてしまう。

極度の恐怖に長期間暴露された経験がなく、また人間を強制的に屈服させ操作する各種の方法の恐ろしさがわかっていない第三者は、自分ならば、そういう情況におかれようとも、彼女よりは勇気を示し、彼女よりはしっかりと抵抗できるといわれなく思い込む。被害者のほうにも落ち度があるのであって、彼女の行動は人格あるいは道徳性に欠陥があるせいだとする一般的傾向はここから来る。洗脳を受けた戦時捕虜はしばしば反逆者あつかいされる。誘惑犯に屈した人質は、しばしば公衆の手で徹底的にむしられる。人質が生き残った場合、誘拐犯がしたよりもさらに過酷な虐待を社会によって受けることさえなくはない。例えばパトリシア・ハーストという無残な例がある。彼女は拘禁状態で犯した犯罪に対して法の適用を受け、実に誘拐犯たちよりも長期の刑を受けたのである。被虐待関係からの脱出に失敗した女性、拘禁状態において売春を余儀なくされた女性、同じくその子を売らざるを得なかった女性は限度を越えた厳しい詮索を受け非難を浴びる。

被害者の欠陥探しを行うという自然的傾向は、政治的集団虐殺の場合にさえ現れる。ホロコーストの後にはユダヤ人の「なすがままの受け身性」とか、(ユダヤ人には)その悲運の「共犯者性」があった、いやちがうという果てしない議論が起こった。しかし歴史家リュシー・ダヴィッドヴィッチの指摘するとおり、「共犯者性」とか「協力」という言葉は自由選択が可能な状況に限って使う言葉である。自由剥奪状況において同じ意味を持つことはありえない。



誤ったレッテル貼りとなる診断

被害者に非ありとするこの傾向は心理学的問診の受け方に決定的影響を与えている。研究者も臨床家も加害者の犯行を被害者の性格によって説明しようとする。人質ならびに戦時捕虜の場合、もともと洗脳されやすい人格的欠陥を想定して、これをつきとめようとする試みは数々あるが、一義的な明快な結果を得たことはないに等しい。結論はただ一つ、ごく普通の健全な心の持主である男性も強制によって「男」らしくない屈従を余儀なくされうるということである。家庭内暴力の場において被害者が場から抜けられなくなるのは物理的拘束ではなく理屈で言い負かされることによってであるが、ここでも、研究は、もともと被虐待関係に陥りやすい女性の性格的プロフィールはこうだという一義的結論は生まれていない。確かに被虐待女性の一部はさまざまな心の問題を抱えていて、それが脆弱性となっているが、大多数には被虐待関係に入る以前にはさしたる心の症状がある証拠はない。女性の大部分が虐待者との関係に入るのは、一過性の危機の時期あるいは大切な何かを失って間もない時期に際して、孤りぼっちだ、誰もかまってくれない、私は幸せじゃないという感じを抱いた時である。夫人殴打の研究についてのある総説はこう結論している。すなわち「おのれを被害者たらしめる性格特徴を女性の中に求めても得るところはない。(中略)男性の暴力は男性の行為であるという事実が忘れられがちである。だから、妻への暴力という行為の説明原理を男性的特性に求めた研究のほうが成果を挙げていることは驚くに当たらない。驚くべきは、男性的な行動を説明するのに女性の性格をあげつらおうとする莫大な研究があることである」。

通常の健康な人間が長期にわたる虐待的な状況に陥ることがあるのはいうまでもないが、脱出後に被害者がもはや正常でも健康でもありえないことも同じく明らかである。慢性の虐待は重症の心理的障害を引き起こす。しかし、被害者を非難しがちな傾向は、心理学的理解と外傷後症候群という診断との邪魔をした。これまでの精神保健専門家は、被害者の病的症状を虐待的状況に対する反応として考えないで、しばしば虐待的状況のほうを被害者の隠れていた病理なるもののせいにしてきた。

この種の考え方の最悪の例は1964年の「妻殴打者の妻」という論文である。その研究者たちはそもそもは殴打する夫のほうを調べていたのだが、夫は研究者に対して断固口を開かないことを知った。彼らはしかたなく方角を変えて殴打された妻のほうに注目した。彼女らのほうが協力的だったからである。彼らによれば、妻たちは「去勢者的な」「冷感症的な」「攻撃的な」「ぐずぐずした」「受け身的な」女であることがわかったという。彼らの結論は「夫の暴力は妻の『マゾ的な欲求』を満足させている」というものであった。女性側の人格障害こそ問題の根源であると結論したこの医者どもは彼女らのほうの「治療」を始めた。一例だけだが、彼らは妻のほうを説得して自分のほうが暴力をそそのかしていたと何とかいわせ、彼女の生き方をどう修繕すれば良いかを教えてやったという。彼女が殴られる時に助けをティーン・エイジャーの息子に求めなくなり、夫が酔っばらって攻撃的な時にも求められればセックスを拒まなくなった時点で治療に成功したと判定されてた。

今日の精神医学の文献ではさすがにこういうむき出しのセクシズム(男性優位の性的偏見)はみられなくなったが、偏見と女性蔑視とを潜ませた同じ誤った考えは依然優勢である。生き残るための最小限の基本的欲求が残るだけになってしまった人の臨床像をみて、これは被害者の元来の性格だと誤診されることは今日でもしばしば起こっている。通常の生活条件下に発達した人格構造の概念が被害者にそのまま当てはめられ、長引いた恐怖という条件下におこる人格の腐食ということが全然理解されていない。だから、慢性外傷の複雑な後遺症に悩む患者たちは依然として人格障害と誤診される危険が実によくある。彼らは本来的に「依存的」「マゾ的」「敗北願望的」などとカルテに書かれる。都市のある大病院の救急部臨床の研究によれば、臨床医たちはルーティン的に殴打されている女性を「ヒステリー者」「マゾ的女性」「心気症者」とカルテに書いていた。

被害者を誤診してしまうこの傾向は1980年代中期に起こった論争の核心であった。それは、アメリカ精神医学会でDSMⅢの改定が議題に上がった時であった。男性精神分析医の一団が「マゾヒスト的人格障害」という診断名を追加するべきだと提案した。この仮説性の高い診断名は状況を変える機会(複数)があるにもかかわらず、他者に搾取、虐待、利用される関係に留まる」すべての人間がこれに該当するとされた。多数の女性グループがこれを聞いて激昂し、激烈な公開討論となった。女性側は診断基準を執筆する過程を公開せよと迫り、これまで少数の男性の特権であった心理学的実体の命名にはじめて参画した。

私もこの過程に参画した。その時いちばん呆れたのは合理的な論点が極めて軽視されていることであった。女性側の代表は、十分に論理を練り、広範な事実の裏付けを取った書面を携えて会議に臨み、「マゾヒスト的人格異常」には科学的根拠がないに等しく、被害者になる過程の心理理解の最近の進歩を無視しており、社会的にも退歩であり、また、差別を促進する作用があるというのは、無力化された人にスティグマ(差別的烙印)を捺すのに使われるおそれがあるからである、と論じた。精神科のエスタブリッシュメントの男性どもは全面的否認に固執した。過去十年間の心的外傷にかんする膨大な文献があることなどは知らないと公然と認め、しかしそれが何か関係があるのかと言い放った。アメリカ精神医学会理事会の一理事などは女性殴打についての議論は「無用だと思う」と言い、別の理事はあっさりと「わしゃ被害者などいないと思う」と述べた。

結局、女性組織からの抗議の声が高まり、この論争を通じて広く公衆が関心を寄せたので、一種の妥協が便宜的になされた。提案された実体の名は「自己敗北型人格障害」となった。診断の基準も変わり、このレッテルは身体的・性的・心理的に虐待されているとわかった人には適用してはならないことになった。もっとも重要な変化は、この障害が本文から付録に移されたことである。それは聖典の中にはあるが外典の位置におとしめられ、そのまま今日までほそぼそと生き長らえている。


新概念が必要となった

マゾヒスト的人格障害という概念を間違って適用したことは、診断学最大のスティグマ付与的な誤りであったが、誤りは何もこれだけではない。一般に現行の診断カテゴリーは、一言にしていえば、極限状況を生き抜いた人のために作られたものではなく、そういう人にはぱったり当てはまらない。極限状況の生存者の執拗な不安、恐怖、恐慌は通常の不安障害と同じものではない。生存者の身体症状は通常の心身症と同じものではない。その抑鬱は通常の鬱病ではない。また、その同一性障害および対人関係障害は通常の人格異常と同じものではない。

性格で全体を包括する診断概念が欠落しているために治療上重大な結果が生じている。患者の現在の症状とかこの外傷体験との関係はしばしばわからなくなっているからである。患者を既存の診断枠という人工産物の鋳型に当てはめようとすることは、一般に問題の部分的理解と断片的な治療的アプローチとなるのが関の山である。慢性的外傷患者は口をつぐんで耐える。かりに訴えても、訴えをちゃんと理解されないことが余りにも多い。それが現実である。患者はほんとうに薬局方全体を集めてしまう。頭痛にこれ、不眠にこれ、不安にこれ、抑鬱にこれという具合である。こういう薬はあまり効果を現さない。それは外傷という、その基底にある問題に向けられているわけではないからである。ケアを与える立場の人が、さっぱりよくならない、慢性的に不幸な、これらの人々にうんざりしだすと、おとしめの意味合いを持つ診断レッテルと貼り付けたい誘惑に打ち勝てなくなる。

「外傷後ストレス障害(PTSD)でさえも、現在の定義では、完全にぴったり合うわけではない。この障害に対する現行の診断基準は主に限局性外傷的事件の被害者から取られたものである。すなわち典型的な戦闘、自然災害、レイプにもとづいている。長期反復性外傷の生存者の症状像はしばしばはるかに複雑である。長期虐待の生存者は特徴的な人格変化を示し、そこには自己同一性および対人関係の歪みも含まれる。幼年期虐待の被害経験者も同一性と対人関係とに類似の問題を生み出す。さらに、彼らは特にくり返し障害をこうむりやすい。他者の手にかかることもあるが、自分で自分に加えた傷害もある。現在のPTSDの叙述では長期反復性外傷のあらゆる表現型をとる症状発現を捉えることもできていないし、捕囚生活において起こる人格の深刻な歪みをも捉えそこなっている。

長期反復性外傷後の症候群にはそのための名が必要である。私の提案は「複雑性外傷後ストレス障害(複雑性PTSD)である。外傷に対する反応は一つの障害でなく、さまざまな病的状態より成る一つのスペクトルとして理解するのがもっともよい。このスペクトルは自然治癒して病気の名に値しない「短期ストレス反応」から古典的すなわち単純性PTSDを経て複雑な長期反復性外傷症候群に至る広い幅がある。

複雑性外傷症候群はこれまで一度も体系的に定義されたことはないけれども、外傷後障害スペクトルという概念は多くの専門家によって記載されている。ただし、ついでにちょっと触れるという形である。ロレンス・コルプはPTSDが「非同質性」であることを指摘し、「PTSDと精神医学との関係は梅毒と内科学との関係に等しい。しばしばPTSDはありとあらゆる人格障害を模倣するようにみえる。(中略)長期にわたって脅威のもとにあった人は長期にわたって改善しない重症の人格解体になる」と述べている。他の研究者も長期反復性外傷後の人格変化に注目している。精神科医エマニュエル・タニーはナチ・ホロコーストの生存者の治療に当たった人であるが、「症状は性格変化の影に隠れてみえず、対象関係の障害と労働・世界・人間・神に対する態度の障害にわずかに現れるにすぎないことがある」と述べている。

多くの経験に富んだ臨床家が単純性PTSDよりも広い診断名が必要だと唱えている。ウィリアム・ニーダーランドは「外傷性神経症の概念では」ナチ・ホロコーストの生存者にみられる症候群の「臨床症状の多岐性と重症性とをカヴァーするのに足りない」ことに気づいている。東南アジア難民を治療した精神科医たちも診断概念の拡張が必要だということを認めている。それは重症、長期、広範囲の心理学的外傷を含むようにせよということである。ある権威筋は「外傷後性格障害」概念を提唱している。「複雑性」PTSDという術語を用いている人たちもある。

児童期虐待の被害経験者を治療している臨床家も診断概念の拡張の必要を理解している。レノア・テアは単一性外傷の打撃の結果を「Ⅰ型」外傷、長期反復性外傷の結果を「Ⅱ型」外傷と区別している。彼女は「Ⅱ型」外傷症候群は否認、心的マヒ、自己催眠、解離、そして極度の受け身性と憤怒爆発との交代を含むものとしている。精神科医ジーン・グッドウィンは単純性PTSDをFEARSと呼び、児童虐待の被害経験者にみられる重症のPTSDをBAD FEARSと呼ぶ呼び方を発案したが、これらは頭文字の集まりである。

このように実際に患者を診てきた人たちは複雑性外傷症候群に共通の単一なものをかいまみており、それにさまざまな名称を与えてきた。この障害に単一の正式な名称を与えて認知するべき時であろう。現在「複雑性PTSD」をアメリカ精神医学会の診断基準DSMⅣに加えることが考慮中である。(加筆します→2018年に初めて区別されて掲載されました)それは七つの柱を以って診断するものである(※表ー下のピンク)このような症候群が慢性的外傷をこうむった人たちを診断する信頼性があるかどうかを決定するフィールド・ワークが実施中である。この検証過程における科学的および知的厳密性は「マゾヒスト的人格障害」なる代物にかんする低級な論争の時代よりも格段に向上している。


複雑性外傷症候群という概念が広く認知されるにつれて、これに付け加える名もいくつか出てきた。アメリカ精神医学会の診断マニュアル作成作業部会は「他には特定不能の極度ストレス障害」という呼称を選んだ。WHOの診断基準「疾病国際分類(ICD)」は「カストロフィー体験由来の人格変化」という名称で類似のものを考えている。これらの名称は出来がよとはいえないが、この症候群を認知するような名前なら何でもないよりましである。

複雑性外傷後ストレス障害に名前をつけることは、長期の搾取にあえいだ人々にそれに値する認知を与えるための重要な一歩である。それは正確な心理学的診断の伝統を守りつつ、同時に外傷をこうむった人々の道徳的・人間的要請をも裏切らない言葉を一つ発見しようとすることである。それは捕囚の影響をどのような研究者よりも深く知る生存者から学ぼうとする姿勢である。

(※表)

複雑性外傷後ストレス障害
1. 全体主義的な支配下に長期間(月から年の単位)服属した生活史。実例には人質、戦時捕虜、強制収容所生存者、一部の宗教カルトの生存者を含む。実例にはまた、性生活および家庭内日常生活における全体主義的システムへの服属者をも含み、その実例として家庭内殴打、児童の身体的および性的虐待の被害者および組織による性的搾取を含む
2. 感情制御変化であって以下を含むもの
・持続的不機嫌
・自殺念慮への慢性的没頭
・自傷
・爆発的あるいは極度に抑止された憤怒(両者は交代して現れることがあってよい)
・強迫的あるいは極度に抑止された性衝動(両者は交代して現れることがあってよい)
3. 意識変化であって以下を含むもの
・外傷的事件の健忘あるいは過剰記憶
・一過性の解離エピソード
・離人症/非現実感
・再体験であって、侵入性外傷後ストレス障害の症状あるい反芻的没頭のいずれかの形態をとるもの
4. 自己感覚変化であって以下を含むもの
・孤立無援感あるいはイニシアティヴ(主動性)の麻痺
・恥辱、罪業、自己非難
・汚辱感あるいはスティグマ感
・他者とは完全に違った人間であるという感覚(特殊感、全くの孤在感、わかってくれる人はいないという思い込み、自分は人間でなくなったという自己規定が含まれる)
5. 加害者への感覚の変化であって以下を含むもの
・加害者との関係への没頭(復讐への没頭を含む)
・加害者への全能性への非現実的付与(ただし被害者の力関係のアセスメントの現実性は臨床家よりも高いことがありうるのに注意)
・理想化あるいは逆説的感謝
・特別あるいは超自然的関係の感覚
・信条体験の受容あるいは加害者を合理化すること
6. 他者との関係の変化で以下を含むもの
・孤立と引きこもり
・親密な対人関係を打ち切ること
・反復的な救助者探索(孤立・引きこもりと交代して現れることがあってよい)
・持続的不信
・反復的な自己防衛失敗
7. 意味体系の変化
・維持していた信仰の喪失
・希望喪失と絶望の感覚




精神科患者としての被害経験者


精神保健機関には長期反復性児童期外傷の被害経験者が押し寄せている。しかも児童期に虐待を受けた人の大部分はまだ一度も精神科医の門を叩いていない。回復の程度が高くなると、自己判断によってますますその傾向が強まる。被害経験者のごく一部だけが何かの機会に精神科患者の多数いや大部分は児童虐待を経験した人である。この点にかんするデータには異論の余地がない。周到かつ慎重な質問を行った結果では、身体的虐待あるいは性的虐待あるいはその両方を受けた歴史があると考えている。精神科救急部に運ばれた患者についての研究によれば、70パーセントに虐待の歴史がある。児童期虐待が成人になってから精神科治療を求めるようになる最大因子の一つであることは明らかである。

児童期虐待の被害経験者で患者となった人は目まぐるしいほど多様な症状を携えてやってくる。その苦しみのレベルは一般に他の患者よりも高い。おそらくもっと重要な所見は児童期虐待の歴史と相関する症状のリストの長さであろう。心理学者ジェフェリー・ブライアーらの報告によれば、身体的あるいは性的虐待の歴史を持つ女性は、標準化された心理検査に置いて、身体化、抑鬱、一般的不安、恐怖症的不安、対人関係過敏性、パラノイアおよびサイコチシズム(解離性症状?)に関して他の患者よりも有意に高い得点を得る。心理学者ジョン・ブライアーの報告によれば、児童期虐待の被害経験者はそれ以外の患者と比較すれば有意に高率の不眠、性的機能障害、解離、激怒、自殺傾向、自傷、薬物嗜癖、アルコール症を示す。症状のリストはいくらでも長くできる。

児童期虐待の被害経験者が治療を求める時には、心理学者デニーズ・ジェリナスのいう「偽装陳述」を行うという。彼女らが援助を求めてくるのはその多数の症状のためでなければ対人関係の困難のためである。例えば、親密関係に発生した問題であるとか、自分以外の人間の求めに過剰に反応してしまうとか、繰り返し被害者になってしまうとかである。実に残念なことに、患者も治療者も現在訴えている症状と慢性外傷の既往とのつながりに気づかない。

児童期虐待の被害経験者も、それ以外の外傷受傷者も、精神保健機関においてしばしば誤診され、間違った治療をされている。症状の数も複雑性も大きいので、治療はしばしばバラバラに行われ、中途半端である。親密関係にかんして特有の不器用さがあるために、彼女ら彼らはケア提供者によってもう一度被害を受けることになってしまいやすい。彼らは破壊的・進行的な相互作用に巻き込まれ、身体医学あるいは精神保健機関は虐待する家族の行動そっくりのことをしてしまう。
児童期虐待の被害経験者はしばしば種々の診断名を積み重ねられて初めてその下に複雑性外傷後症候群という問題があることに気づかれる始末である。彼女ら彼らは非常にマイナスの含みを持つ診断名を与えられる確率が高い。児童期虐待の被害経験者に与えられる特に有害な病名が3つある。身体化障害、境界性人格障害、多重人格障害である。この3つの診断名はいずれもかつては現在廃止された病名「ヒステリー」の下位病名であった。患者は通常女性であるが、これらの診断名を貰うと、ケア提供者側が強烈な反応を起こす。彼女らの話すことは信憑性が怪しいとされる。人をふりまわすとか仮病を使うと指弾される。彼女らを対象として、しばしば、感情的で偏見にとらわれた議論が行われる。時にはあっさりと嫌な奴だとされる。

この3つの診断名はおとしめの意味合いを背負っている。もっともひどいのが境界性人格障害という診断名である。この用語は精神保健関係者によってよく使われるが、それは高級な学者の装いの下で人を中傷する言葉に過ぎない。ある精神科医は無邪気にこんなことを白状している。すなわち「研修医の時の思い出ですが、僕は指導医に境界性人格障害の患者をどう治療したらよいのでしょうかと質問したらですね、皮肉っぽい語調で『他に紹介したまえ』という答えをもらいました」。精神科医のアーヴィン・ヤロムは「境界」という単語は「ぼつぼつ楽をしたいと思っている中年の精神科医の心臓に恐怖を叩き込む言葉だ」と述べている。一部の臨床家は「『境界』という用語は非常な偏見がからまってしまったので全面的に廃棄しなければならない、それはちょうどその前任者が『ヒステリー』を廃棄しなければならなかったのと同じ話だ」と主張している。

この3つの診断名には共通面がたくさんあって、一まとめにされたり、重複診断となったりする。この3つのうちどれか一つの診断名を貰う患者はこれ以外の追加病名をもたくさん貰う。(途中略)
これら3つの障害を持つ患者はすべて、親密関係において特有の困難を持つという共通性がある。対人困難にかんする文献がもっとも多いのは境界性人格障害である。実際、強烈でしかも不安定な対人関係パターンというのがこの診断のための主要基準の一つである。境界例患者は独りでいることへの耐性がきわめて低いが、同時に他者に対する警戒心を極度に持っている。見捨てられることも支配されることも思っただけでぞっとする。彼女ら彼らはしがみつきと引きこもりの両極の間、なりふり構わぬ屈従と狂乱的反抗との両極の間を揺れ動く。彼女ら彼らはケア提供者を理想化して「特別の」関係を結び、この関係においては通常の対人的境界がなくなってしまう。精神分析的研究者はこの不安定性を小児期初期という形成期における心理的発達の挫折のためであるとしている。ある権威者は境界性人格障害の一次的欠陥を「対象恒常性への到達の挫折」にあるとしている。これは何のことかというと「信頼する人たちのよく統合された安心できる内的表象の形成の挫折」である。別の権威者は「抱えられ慰められる安全保障機能を自己に提供する対象の内在化の形成の発達上の相対的挫折」だと言っており、これは何のことかというと「境界性人格障害を持つ人はケアを提供してくれる人との安心できる関係のメンタル・イメージを呼び出して自分を落ち着かせ慰めることができない」そうである。

このような嵐のように翻転する不安定な対人関係は多重人格障害の患者にも見られる。この障害においては、機能が極端に仕切りで分け隔てすぎていて、解離されている「交代」人格によってきわめて矛盾した関係の持ち方のパターンが現れても不思議ではない。多重人格障害の患者は、また、強烈で、高度に「特別な」関係をくりひろげるが、この関係には対人境界の侵犯と争いと搾取される可能性とがつきものである。身体化障害の患者に親密関係の困難があり、性的問題、婚姻上の問題、育児問題が起こる。

自己同一性形成の障害も境界性人格障害および多重人格障害の患者につきものである。自己が断裂して、解離された複数の交代人格となっていることが多重人格障害の核心である。(途中略)

この3障害の共通項は何であろうか。それは児童期の外傷に起源があるということである。この関連性は明白なこともあるが、ヒントしかない場合もある。多重人格障害の場合には激烈な児童期外傷の既往が病因の役割を果たしていることは現時点では確定済みである。精神科医フランク・パトナムの多重人格障害百例の研究によれば、97名は深刻な児童期外傷の既往があった。大部分は性的虐待か身体的虐待か両者ともであった。極端なサディズムおよび殺人に及ぶ暴力は、その恐るべき既往症において決して例外でなく通例であった。半数近い患者が実際に身近な人が暴力によって殺されるのを目撃していた。
(途中略)


以上3つの障害をもっとも適切に理解する道は、それぞれを複雑性PTSDの一種として、それぞれの個性は外傷的環境への適応の一つの形式に由来したものと解することであるまいか。PTSDの生理神経症は身体化障害のもっとも顕著な特徴そのものであり、変性意識は多重人格障害においてもっとも顕著な症状であり、同一性と対人関係の障害は境界性人格障害においてもっとも顕著な障害である。複雑性外傷後症候群という包括的概念は、先の3つの障害のそれぞれの特異性と相互関係を解き明かすものである。このように定式を立てると、かつてヒステリーといわれていた病的状態の断片的であった記述にまとまりができる。このことは、それらの共通の起源が心的外傷の既往歴にあることを証しするものである。

以上3つの障害のもっとも厄介な特徴の多くが、児童期外傷の既往という光のもとでみれば、以前よりも理解できるものとなる。さらに重要なのは、被害経験者が自分で納得するようになることである。被害経験者がその心的困難は児童期の虐待的環境に起源があることを認識すれば、もはや困難を「自己」の生まれながらの欠陥のせいにする必要はなくなる。そうなれば体験に新しい意味を生み出し、そして新しい、スティグマのない自己同一性に到る道が開かれる。

これらの重症な障害の発症に至る道における児童期外傷の役割を理解すると、治療のあらゆる面にヒントが得られる。この理解は協力的な治療同盟の基盤を与えてくれる。この同盟は、過去の事件に対する被害関係者の情緒的反応が正当なものであり、その裏付けがあることを教え、しかし、現在は適応的でないことを認識させてくれる。さらに、被害経験者の対人関係の特徴的な障害とそのためにくりかえし被害者にされる危険があるという理解に患者と治療者とが共同で到達すれば、これは治療関係において元来の外傷を無意識的に再演してしまう危険を防ぐ最高の保障となる。

2021年10月17日日曜日

エリックバーンの時間の構造化


あなたは、1日の中でどんな時間配分で生きていますか?

これは、タイムスケジュールでもありますが、もう少し言うと「用事」の時間配分と言うよりは「心」の時間配分というと違いがわかるでしょうか。

エリックバーンは人は知らず知らずのうちに、「誰とどう交流しようか」とか「どうやって一人の時間を作ろうか」などと決めてそれを実行したりしなかったりして過ごすと言います。

もちろん、好きな人と楽しい時間を過ごすのが好きな人もいるし、一人の時間を充実させたい人もいます。

ただ、動画でお伝えした「心理ゲーム」のように、あまり気持ちのよくない交流を求める人もいます。


そうすると、この心理ゲームに巻き込まれた人は、自分にとっての大切な時間を奪われることになります。

バーンは、この時間の構造化を6つのタイプに分けました。

  1. 引きこもり
  2. 儀式
  3. 暇つぶし(社交)
  4. 活動
  5. ゲーム
  6. 親密さ
これは、1の引きこもりからだんだんと交流を増していって、最後の親密さというのが一番の理想になります。

ただ、その途中にはさっきも言ったようなゲームなどがあり、それで傷つき後戻りしてしまうことになるかもしれません。

それだけ交流を増やしていくということは、嫌な人や騙す人なども入り込む危険もあるのです。

では、一つづつ説明します。

1. 引きこもり


この言葉には誤解も生まれそうですが、交流分析の立場からすると、「他者との交流をしない」という意味で一番下位のようになっています。

しかし、一人の時間こそ大事だという人も多く、内省をする大切な時間にもなります。


2 . 儀式


儀式とは、朝の挨拶とか当たり前のようにやっている「恒例の……」です。

この交流によって心が動かされたりすることはないですが、恒例行事なのでそれがないと「あれ?」という気づきにもつながります。


3. 暇つぶし(社交)


これで一番想像しやすいのは、井戸端会議です。

決して本音は話さないのに、朝から夕方までなどずっと話しているような、内容の薄い交流です。

似たような価値観で、暇つぶしをしたい人が集まって会話をするので、平和というか無害です。


4 . 活動


これは、お仕事とか母親の仕事、父親の仕事、などのように、外面的な活動によって人々と交流することです。

本当の自分というよりも、その役割に適した自分で交流します。


5 . ゲーム


こちらが動画でもお伝えしたゲームです。ネガティブな自我状態から発生して、仕掛け人がカモを探して惨めにさせて終わるようなゲームを仕掛けます。

しかし、仕掛けた方も反論されたり、ゲームが中断されて惨めな気持ちを味わいます。

この惨めな気持ちをラケット感情🏓といって、「やっぱり私はこんな人間だ」と自分の行き方を情けなく感じたりします。


6 . 親密さ



これが理想形と言われる交流です。

ゲームのように相手を惨めにさせることはしないし、自分も大切にします。
また、儀式のような堅苦しい外面ではなく、本音が言える交流です。
このような関係は長く続くものではないですが、それが続くと交友関係となったり家族となったりします。



あなたは、どの時間を多くとってますか?

2021年10月11日月曜日

自己愛人間の5つのタイプ

 


動画では自己愛人間について説明しましたが、こちらではその中で自己愛人間の5つのタイプを取り上げさせていただきます。


  1. 自己実現型の自己愛人間
  2. 同調型・画一型の自己愛人間
  3. 破綻型の自己愛人間
  4. シゾイド人間(回避型)
  5. はみだし型の自己愛人間
一つづつ説明します。



1.自己実現型の自己愛人間

作家、学者、知識人、政治家、経営者などの中の特別な才能を持ち、それだけに理想自己が高く、その実現のためにひたすら努力し、エリートコースを歩む人です。
また、少数の特別すぐれた容姿・才能の持ち主は、スターとしてその自己顕示欲を満たすことができます。 

こちらの動画で、「宇宙に飛び出す」ことを高橋先生は進めていらっしゃいますが、その宇宙こそが、「自己実現」のことです。
覚悟と勇気と実現能力をフル活動させて、夢を掴み取る人です。

ただ、このような立場にいても、立場を失墜してしまったり、老化によって能力が発揮できなくなったりすると、他のタイプに移行することも十分にあり得ます。


2.同調型・画一型の自己愛人間

いわゆる平凡的な大衆であって、現代のわが国社会でもっとも安定し、自分、あるいは家族、身近な仲間、同僚ぐらいの生活範囲で、比較的容易に手に入る消極的な自己愛の満足で暮らしている人々です。社会の側が提供する画一的な理想自己をみたすことで暮らしています。そして、みんなと同じかどうかが、一つの生活基準になっています。
この人数が最も多いと思われます。その中で疲弊する人も多いですが、自分の才能の限界とかをある程度受け止めている人は、それほど苦難を感じることなく生きていけると思います。




3.破綻型の自己愛人間

親子関係の中で特別に自己誇大感が肥大するような人となりを持ち、しかも思春期以降になって自己実現型になるほどの現実能力を持たないために、「自分は特別」という自己愛が破綻して挫折してしまうタイプを言います。

それぞれ人生の中で破綻(挫折)をしますが、若いうちでは登校拒否や家庭内暴力、自殺、自傷、非行などです。もちろん、中年期や老年期になってひどくなる人もいます。
特に、親離れをすると、肥大した自己愛の持っていきようがなくなって、挫折と幻滅を起こしやすいとも言えます。
自己破壊的な行為に向かいやすく、子どもなどを作れば、その破壊性を子供に向けることもあります。




4.シゾイド人間(回避型)

人と人との深い対人交流や関わりを回避し、対人関係につきものの心の悩みや対象消失による悲哀・不安を避けようとする。
特に画一的行動パターンへの同調(引きこもりなど)を主な適応形式にする。ただしその裏には「のみこまれ不安」と呼ばれるような自己を失う恐怖がある。つまり深い対人交流を持つことが、すべて自己喪失の恐怖として体験されてしまう。そのために表面的な良い局面でしか人と付き合わない。いったん悪い局面が出てくれば人間関係そのものに背を向け引きこもってしまう。しかしシゾイド人間も自分の主観的な内的空想世界を大切にし、密かな全能感を抱くという点ではやはり自己愛人間なのです。


5.はみだし型の自己愛人間

そもそも、自己実現型にせよ同調型にせよ、自己愛の満足さえ得ていれば、対人関係にせよ、食欲・性欲・攻撃性などの欲動のコントロールにせよ、それらを順調に営むことができます。自己愛は苦痛・不快・怒り・憎しみ・恐怖・迫害などからその人を守るバリヤの役目を果たし、種々の欲動のコントロールシステムを維持し、様々な精神機能の活力源になっているからです。それだけに、全能感が失われ自己愛が傷つき深刻な幻滅が起こると、精神的な危機が襲います。

そういう意味でも、自己愛の人が最も恐れるのは、「老化」であり「死」であることがわかります。 


いかがでしょうか。

こうしてみると、パッと見て「自己実現型がいいな」と思いますが、これは人それぞれなのです。

一番の不幸は自分に才能や現実能力(実行力)がないのに、大きな夢(誇大自己)を持つことこそが自己愛人間のいきづらさの原因です。

反対に、本当は才能や現実能力があるのに、「お前はダメだ」と周囲に言われて「無能だ」と勘違いしている人も不幸です。こういう人もすごく多いです。


自分を知った上で、何ができるか、できないかを自分で見極めて、現実的に生きていくことこそが大切だと思いました。また、何でも人に相談すると、相談する相手によっては妬みなどの悪意がその人にあれば、ネガティブなアドバイスを受けてしまうことにもなるので注意が必要です。



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2021年10月8日金曜日

エディプスコンプレックス概念が力を持っている理由


エディプスコンプレックス

エディプスコンプレックスとは、母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のことをいう。

フロイトは、この心理状況の中にみられる母親に対する近親相姦的欲望をギリシア悲劇の一つ『オイディプース』(エディプス王)になぞらえ、エディプスコンプレックスと呼んだ(『オイディプス』は知らなかったとはいえ、父王を殺し自分の母親と結婚(親子婚)したという物語である)。ウィキペディアより引用

上記ジークムントフロイト伝によると、 ある時期フロイトは、哲学本や昔話などを好んで読み、そこから精神分析の基礎となる考えを見出したようです。



 アリスミラー は、「禁じられた知」の中でこのように述べています。

  1. 前世紀終盤フロイトがエディプス・コンプレックスを言い出した時には、これははるかに時代を先取りする概念でした。4歳から5歳までの子供が激しい感情の波にもまれること。嫉妬、愛憎、愛されなくなってしまうかもしれないという不安に苦しむこと。そしてこのような感情が抑圧されると神経症として現れることがあること。これらの発見はいうまでもなく、当時の社会にとっては一つの革命だったのです。子供の内面世界の豊かさを知らない人は、今日、フロイトから80年の後になっても決して少なくありません。有名な人物の伝記にしても、高校生になったくらいの頃から書き始められているものが圧倒的に多いのが現状です。それを思えば、当時このフロイトの理論がどれほど斬新で新機軸を打ち出したものであったかがわかるでしょう。フロイトおよび弟子たちはいうまでもなく、無意識を問題にすることに対する抵抗と戦い続けなければなりませんでした。ですから精神分析医たちがエディプスコンプレックスに対する批判はどんなものであれその種の防衛と抵抗に過ぎないと解釈してきたのにもやむを得ないところがあるのです。
  2. しかし、そのような解釈は、確かにフロイトの貴重な発見を「わけもわからぬ攻撃者」から守る役に立ったかもしれませんが、時が経つにつれてフロイト理論そのものを硬直化させることになります。この理論は、誤謬(ごびゅう……誤りのこと)と真実をより合わせたものだったのに、それが永遠に変わることなき宝物として奉られてしまい、今では一種の権力機構のごとき様相を呈しています。例えば精神分析に熟練した人が自らを真摯に省みて、どう探っても自分には母親と性的交渉を持ちたいという願望はないことがわかったとします。そうするとこの人はその事実をこんなふうに解釈しなければなりません。すなわち、母親との性交を望むことが禁じられているために、全くその痕跡も残らぬほど深く抑圧したのだと。これから分析医になりたいという若い人たちが、少しばかり自分の気持ちを無理に納得させてしまうのも全然不思議ではありません。この人たちは精神分析によって自由になれるかもしれないと信じています。精神分析という有力なグループの一員になれる可能性をみすみす逃したくないと思うのも当然です。けれどもある人間がイデオロギーのために自分自身の真実を踏みにじってしまいますと、たとえその理由がどんなものであったにせよ、その人は次の世代に対してありとあらゆる手を尽くして自分のイデオロギーを守り通そうとするものです。そうでなければ自分の敗北の悲劇をもろに味わわなければなりません。ただ1981年(この本の執筆時期)という年になってみると、子供の感情生活を押しつぶし、すべてを衝動ということにしてしまうやり方ではもはや問題はうまく片付きません。それに子供が両親の双方に愛憎半ばする気持ちを抱くというのもエディプスコンプレックスの図式では割り切れません。もっとも精神分析の内部では、なんとかしてこれをエディプス理論で説明しようと様々に試みられているようですが。
  3. エディプスコンプレックスの理論がこれほど長く支持され続けているのには、闇教育の植え付ける掟の力も与っています。はるか昔から教育者は、自分の行いの本当の動機は隠して、子供の望みや願いを悪い罪深い心から生まれたものだと言いくるめ、自分が子供にすることは子供のためを思ってやっているのだと自画自賛してきました。1896年フロイトは自分の発見によって社会から疎外される危機に瀕し、かろうじてエディプス理論に逃れ出ました。フロイトが無意識のうちにこの闇教育の掟に従っていなければ、こういう形での逃避はあり得なかったはずです。確かに当時の人間にとって、子供が性的欲望に動かされていると考えるのは衝撃的なことだったかもしれません。しかしそれでもこれは教育によって隠蔽され支持された権力構造に逆らうものではありませんでした。したがって、おとなの子供に対する仕打ちを性的な部分をも含めて真実ありのままに伝えるよりは、はるかに危険が少なかったのです。性に衝き動かされている子供は(教育および治療の)対象として相変わらずおとなの心づかいを受ける対象になるわけです。
  4. 教育は「気づかぬ」よう気遣い、精神分析はエディプスコンプレックスがうまく機能することを眼目としています。子供を支配しているおとなが子供をひどい目に合わせようが虐待しようがそれをごまかすことこそ至上命令です。問題の中心は子供の責任、あるいはいわゆるエディプス的葛藤ということになります。もはやエディプスの父、ライオス王はどうして息子が生まれてすぐに穴を開けて捨てさせたりしたのか、という問いを立てる人さえいません。フロイトの時代、しつけの良い子供は両親がどういうつもりであることをするのかを尋ねたりしないものでした。フロイトの理論はつまり、当時の良いしつけのしっぽを今での引きずっているわけです。
  5. 第二次世界大戦後いわゆる筋金入りの教育理論が弛緩し、その結果両親はもはや専制支配の特権を持つ存在ではなくなっています。前の時代よりもいくらか自由に成長してきた子供たちは、両親の弄する手管を見破る力も昔よりは持っているでしょう。この若い人たちのとらわれのなさに脅かされて、自分たちの理論に対する信仰および信条を、より強固に揺るぎないものにせねばならないと考える人も少なくありません。こういう人たちは自分では気づいていませんが、実は闇教育の犠牲者なのです。しかし、精神分析医の養成に当てっているのはこの人たちですから、彼らは自分の都合の良いように砦を築いてしまいます。(途中略)しかし、すでに申し上げましたように、今日私たちは自己愛的欲求についてははるかに知るところが多く、そのおかげで子供の感情の捉え方も概念化の仕方も、はるかに詳細で正確になっています。にもかかわらず未だに話を性的衝動に限らねばならないとすれば、エディプス理論のそのような根強さは決して経験の裏づけによるのではなく、むしろ精神分析学会内部の権力構造が原因になっているのです。学会は父の代、そして祖父の代の防衛機制を守ることを金科玉条(きんかぎょくじょう……金や玉のように立派な法律)にしていますから。
※下線部は、アリスミラー の強調している箇所になります。

いかがでしょうか。



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