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2021年10月8日金曜日

エディプスコンプレックス概念が力を持っている理由


エディプスコンプレックス

エディプスコンプレックスとは、母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のことをいう。

フロイトは、この心理状況の中にみられる母親に対する近親相姦的欲望をギリシア悲劇の一つ『オイディプース』(エディプス王)になぞらえ、エディプスコンプレックスと呼んだ(『オイディプス』は知らなかったとはいえ、父王を殺し自分の母親と結婚(親子婚)したという物語である)。ウィキペディアより引用

上記ジークムントフロイト伝によると、 ある時期フロイトは、哲学本や昔話などを好んで読み、そこから精神分析の基礎となる考えを見出したようです。



 アリスミラー は、「禁じられた知」の中でこのように述べています。

  1. 前世紀終盤フロイトがエディプス・コンプレックスを言い出した時には、これははるかに時代を先取りする概念でした。4歳から5歳までの子供が激しい感情の波にもまれること。嫉妬、愛憎、愛されなくなってしまうかもしれないという不安に苦しむこと。そしてこのような感情が抑圧されると神経症として現れることがあること。これらの発見はいうまでもなく、当時の社会にとっては一つの革命だったのです。子供の内面世界の豊かさを知らない人は、今日、フロイトから80年の後になっても決して少なくありません。有名な人物の伝記にしても、高校生になったくらいの頃から書き始められているものが圧倒的に多いのが現状です。それを思えば、当時このフロイトの理論がどれほど斬新で新機軸を打ち出したものであったかがわかるでしょう。フロイトおよび弟子たちはいうまでもなく、無意識を問題にすることに対する抵抗と戦い続けなければなりませんでした。ですから精神分析医たちがエディプスコンプレックスに対する批判はどんなものであれその種の防衛と抵抗に過ぎないと解釈してきたのにもやむを得ないところがあるのです。
  2. しかし、そのような解釈は、確かにフロイトの貴重な発見を「わけもわからぬ攻撃者」から守る役に立ったかもしれませんが、時が経つにつれてフロイト理論そのものを硬直化させることになります。この理論は、誤謬(ごびゅう……誤りのこと)と真実をより合わせたものだったのに、それが永遠に変わることなき宝物として奉られてしまい、今では一種の権力機構のごとき様相を呈しています。例えば精神分析に熟練した人が自らを真摯に省みて、どう探っても自分には母親と性的交渉を持ちたいという願望はないことがわかったとします。そうするとこの人はその事実をこんなふうに解釈しなければなりません。すなわち、母親との性交を望むことが禁じられているために、全くその痕跡も残らぬほど深く抑圧したのだと。これから分析医になりたいという若い人たちが、少しばかり自分の気持ちを無理に納得させてしまうのも全然不思議ではありません。この人たちは精神分析によって自由になれるかもしれないと信じています。精神分析という有力なグループの一員になれる可能性をみすみす逃したくないと思うのも当然です。けれどもある人間がイデオロギーのために自分自身の真実を踏みにじってしまいますと、たとえその理由がどんなものであったにせよ、その人は次の世代に対してありとあらゆる手を尽くして自分のイデオロギーを守り通そうとするものです。そうでなければ自分の敗北の悲劇をもろに味わわなければなりません。ただ1981年(この本の執筆時期)という年になってみると、子供の感情生活を押しつぶし、すべてを衝動ということにしてしまうやり方ではもはや問題はうまく片付きません。それに子供が両親の双方に愛憎半ばする気持ちを抱くというのもエディプスコンプレックスの図式では割り切れません。もっとも精神分析の内部では、なんとかしてこれをエディプス理論で説明しようと様々に試みられているようですが。
  3. エディプスコンプレックスの理論がこれほど長く支持され続けているのには、闇教育の植え付ける掟の力も与っています。はるか昔から教育者は、自分の行いの本当の動機は隠して、子供の望みや願いを悪い罪深い心から生まれたものだと言いくるめ、自分が子供にすることは子供のためを思ってやっているのだと自画自賛してきました。1896年フロイトは自分の発見によって社会から疎外される危機に瀕し、かろうじてエディプス理論に逃れ出ました。フロイトが無意識のうちにこの闇教育の掟に従っていなければ、こういう形での逃避はあり得なかったはずです。確かに当時の人間にとって、子供が性的欲望に動かされていると考えるのは衝撃的なことだったかもしれません。しかしそれでもこれは教育によって隠蔽され支持された権力構造に逆らうものではありませんでした。したがって、おとなの子供に対する仕打ちを性的な部分をも含めて真実ありのままに伝えるよりは、はるかに危険が少なかったのです。性に衝き動かされている子供は(教育および治療の)対象として相変わらずおとなの心づかいを受ける対象になるわけです。
  4. 教育は「気づかぬ」よう気遣い、精神分析はエディプスコンプレックスがうまく機能することを眼目としています。子供を支配しているおとなが子供をひどい目に合わせようが虐待しようがそれをごまかすことこそ至上命令です。問題の中心は子供の責任、あるいはいわゆるエディプス的葛藤ということになります。もはやエディプスの父、ライオス王はどうして息子が生まれてすぐに穴を開けて捨てさせたりしたのか、という問いを立てる人さえいません。フロイトの時代、しつけの良い子供は両親がどういうつもりであることをするのかを尋ねたりしないものでした。フロイトの理論はつまり、当時の良いしつけのしっぽを今での引きずっているわけです。
  5. 第二次世界大戦後いわゆる筋金入りの教育理論が弛緩し、その結果両親はもはや専制支配の特権を持つ存在ではなくなっています。前の時代よりもいくらか自由に成長してきた子供たちは、両親の弄する手管を見破る力も昔よりは持っているでしょう。この若い人たちのとらわれのなさに脅かされて、自分たちの理論に対する信仰および信条を、より強固に揺るぎないものにせねばならないと考える人も少なくありません。こういう人たちは自分では気づいていませんが、実は闇教育の犠牲者なのです。しかし、精神分析医の養成に当てっているのはこの人たちですから、彼らは自分の都合の良いように砦を築いてしまいます。(途中略)しかし、すでに申し上げましたように、今日私たちは自己愛的欲求についてははるかに知るところが多く、そのおかげで子供の感情の捉え方も概念化の仕方も、はるかに詳細で正確になっています。にもかかわらず未だに話を性的衝動に限らねばならないとすれば、エディプス理論のそのような根強さは決して経験の裏づけによるのではなく、むしろ精神分析学会内部の権力構造が原因になっているのです。学会は父の代、そして祖父の代の防衛機制を守ることを金科玉条(きんかぎょくじょう……金や玉のように立派な法律)にしていますから。
※下線部は、アリスミラー の強調している箇所になります。

いかがでしょうか。



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