最近、中学生がいじめにあっていたことで、公園で亡くなったと言うニュースがありました。
このようなケースは、ニュースにならないものがほとんで、実は身近なところでも頻繁に起きています。
学校関係者などもなるべくニュースにしたくないのが本音でしょう。
このような重大なことが、放置されているのは非常に違和感があります。
また、子供によっては自殺まで行かない人もいます。
この違いは何でしょうか?
今回は、吉本隆明氏の「ひきこもれ」からその答えを探します。
子どもはなぜ、死を選ぶのか
子どもがいじめられて自殺したような場合、それは親が自殺したと言うのと同じです。つまり、親の代わりに子どもが自殺したのだと思えば、それが一番真実に近いのです。親が子どもに「命は大切だぞ。いくらいじめられても、死んだりするものじゃないよ」などと、いくら言っても無効です。なぜなら、子どもの自殺は、親の代理死なのですから。ひどいいじめを受けたとしても、死なない子は死にません。自殺する子どもは、育ってきた過程の中で、傷つけられてきた無意識の記憶があるのだと思います。子どもが受ける無意識の傷とは、前にも述べたように、子どもを育てる親自身が傷ついていたと言うことです。
傷ついた親に育てられた人は、死を選びやすいのです。親から子への自殺願望の転移
「もう自殺するよりほかにない」と言うほどの体験を、子どもが単独でするとは考えにくいとぼくは思います。今の子どもは、加減というものがわからなくなっているから、例えば鉄の棒でひっぱたいて相手を死なせてしまったというようなことは、起こりえないとは言えないでしょう。しかし、精神の体験としては、死を選ぶほどの体験を、子どもがみずからしているわけがありません。結局は、親の真似なのです。心の奥のほうで、無意識のうちに「死にたい」と思っているけれども実行には移さない親がいる。その死への傾斜をこれまた無意識のうちに感じ取った子どもが、何かのきっかけで実行に移してしまうのです。臨床心理学の先生がこんなことを話していました。あるひとのカウンセリングをして、その帰りに駅で電車を待っていた。ホームに人が入ってくると、なぜだか知らないけれど、飛び込みたくて仕方が無くなるそうです。自分は自殺したいという気持ちはまったくないのに、一体どうしたんだろうと思ってよくよく考えてみると、その日カウンセリングをした患者さんが、強い自殺願望をもっていた。その自殺願望が転移したとしか考えられないと言ってました。大人同士で、赤の他人でさえそうした影響を受けるのです。親の心の傷を子どもが自分のものとしてしまったり、親の死にたい気持ちを自分が現実化してしまうことは、十分にありえると思います。自分の子どもに自殺された親たちが、同じ境遇の人同士で集まって会を作り、子どもの自殺を防ぐための活動を行なっているという話を聞きます。そうした親たちは、何か考え違いをしているという気がしてなりません。残酷なようですが「あなたの子どもは、他でもない、あなたの代わりに死んだのではないですか」と言いたくなるのです。世間を啓蒙して回る前に、自分自身を見つめたほうが早いのではないか、そう思うのです。
ということです。
これは、本当に重要な視点だと思います。
同じように、子どもの自殺の後に、親などが手記などを出すことに対しても、違和感を覚えています。
多くの場合、いじめっ子がいかに残忍であったかが書いてあるのですが、もし家が安全な場所なら、学校などやめたら良いのであって、死にはしないと思うのです。
そこには一切触れることなく終わることに、釈然としないものがあります。
もちろん、その人たちが「罪を感じるべき」ということではなく、手記を書くことよりも、もう少し死を選んだ子どもの気持ちに立ってやることが重要なような気がします。
また、このような安全基地を作れない親なども、当然ですが存在します。
それは、仕方のないことです。
ただ、それがわかった上で、世間体のために子どもをその場に縛りつけるようなことは考えずに、子どもが思うようにさせてやる配慮は必要だと思います。
「子どもの思うように」というのは、「その場から逃げたいと思っている?」とか、「生き生きしてないのは、私のことを嫌っているのではないか?」という子どもの正直な気持ちを汲み取ろうとすることです。
そうすれば、例えば面倒見の良いおじいちゃんの家で育ててもらうとか、引越しをして同居するとか、親自身が学ぶべきことを学ぶために、何かを始めることなどもできます。
見ないふりをして通り過ぎてしまうことが、一番子どもには「毒」です。
なぜなら、「自分には味方はいない。SOSを求めても誰も手を差し伸べてくれない。」という結論は何を意図するでしょうか。
これは、大人には当たり前のことであっても、一人で生きていけない子供には「死」を意味するからです。
もし、子どもに愛情を感じなくても、せめて義務教育までは、生き物を傷つけるようなことは極力避けていただきたいし、子どもを自分の欲求の代行にさせようなどという邪心は、一切禁止すべきだと思います。