今回は、アリスミラー の「才能ある子のドラマ」から動画では取り上げなかった部分を、こちらでご紹介します。
全てが重要なので、「哀れな恵まれた子ども」と言う小タイトルの部分を引用させていただきます。
われわれが子供の頃にさらされた、したがって内面心理的には成人してもさらされていることになる孤独感、見捨てられた感じの度合と言うものを捉えることが、そもそもわれわれにはできるものなのかどうか、しばしば私としては自らに問わざるをえない。
私がここで言っているのは、何も外面的に見捨てられること、表面的な両親との別離のことではない。
無論、それはそれで心的外傷として影響を与えるかもしれないが、さらにまた、明らかに大事にされなかったり、それどころかほっぽらかしだったりで、大きくなった子どものことも、私の念頭にはない。
この子たちはそのことをいつも知っていて、少なくともその真実とともに大きくなったのである。
ところが、非常にしばしば洗練された、努力を惜しまぬ両親を持っていて、その両親に育てられて、しかも重いうつ病に悩んでいると言うナルシシズム障害者が多数いる。
この人たちは、自分の子どもの頃については、幸せな大事にされた幼少時代だと言うイメージを抱いて成長したのだが、そのイメージを抱いたまま分析治療を受けにやって来る。
このような患者は、多くの可能性を、いやそれのみか才能も有していて、それを発揮しているのであり、その天分や業績のゆえにしばしば賞賛の的となってきたのである。
この人たちは、両親の自慢の種でもあり、強い、確固たる自意識を持っているに違いないと言うことになろう。が、実際はまさしくその逆なのである。
この人たちは手に染めるものを、何でも実に見事にやってのける。
人に褒められうらやましがられる。
ここ一番と言うところでは、必ずうまくいく。だが、それら一切が何の役にも立たない。その後ろにはうつ病が待ち構えている。
虚しいと言う感じ、自己疎外感、生存が無意味だと言う感情が待ち構えている。
誇大妄想という麻薬がきれてしまうやいなや、あるいはその人たちが「トップの座」をすべり落ちるやいなや、あるいはスーパースターの自信を喪失するやいなや、あるいは何か他の理想像が出現して自分は役に立たないという感じを不意に持つような場合がそうなのである。
そうなると、しばしば不安や重い罪悪感や、羞恥感に苦しめられるようになる。
このような才能ある人たちに見受けられる、かかる深刻なナルシシズム障害の原因は、何なのであろうか。
この人たちの話に耳を傾けると、すでに最初の話しあいですぐに、物分かりの良いいい両親を持っていたことがわかる。
少なくとも両親の一方はそうだったのである。そして、この人たちがかつて自分たちを取り巻く周囲の世界から理解されることがなかったとすれば、それはその人たちに言わせると、「自分たちのせいであった」ということになる。
すなわち自分たちがまともに自己を表明することができなかったせいだというわけである。
この人たちが自分の最初の追憶を持ち出す場合、昔の子供のころの自分に対する共感というものを示さない。
この事実は、これらの患者たちが内省に対して並外れた能力を有しているばかりか、他人に対しての感情移入が優れているだけに、それだけ一層目立つのである。
この人たちの幼少時代の感情世界に対する関係を、特徴付けているのは、敬意の欠如、締め付け、操作、仕事をせよという精神的圧迫である。(このような扱いを受けて育った)
そこにはしばしば軽蔑と皮肉が現れることがあり、これは嘲笑と冷笑へといたることさえある。
さらに一般に見受けられるのに、子供としての自分自身の運命を真に、情緒的に理解したり、受け止めようとすることの完全な欠落がある。
あるいはまた、仕事への強迫の彼岸にある自分自身の本当の欲求については、まったく何もわからないという点がある。根源的なドラマの内化が完璧に成功した結果、良き幼児期という錯覚が無傷でいられることができるわけである。
このような人たちの心的風土はこのようになる。
- 自分があるがままのものとして、また自分の活動の中心として見られ、注目され、受け止められることこそ、子供の本来の欲求に他ならない。本能的願望と違ってこれは、同じように正当性を有しているとはいえ、ナルシシズム的欲求なのであり、この欲求を充足することは健全な自己感情を形成するためには、どうしても不可欠なのである。
- 「あるがままのもの」とは、感情、感覚、それらの表現であり、これはすでに乳児の時からそなわっているのである。
- 子供の感情に対する敬意と寛容の雰囲気があれば、子供は分離段階において母親との共生を諦め、固体化と自律への歩みを完成する。
- 健全なナルシシズムのこのような諸前提が可能であるためには、この子供たちの両親も同じように、このような風土の中で成長していなければならないだろう。
- 子供のころにこのような風土を獲得しなかった両親は、ナルシシズム的欲求を持つこととなる。すなわち、このような両親はその生涯にわたって自分たちのそのまた両親がしかるべき時に自分たちに与えてくれることができなかったものを探し求める。つまり、十全に自分たちに同意し、十全に自分たちを理解し、受け止めてくれるような存在を、自分たちを賞賛して、つき従ってくれるような存在を求めてやまない。
- かかる探求は、むろん十二分にうまくゆくわけにはいかぬ。なぜなら、二度と戻らぬ過去の局面に、すなわち自己形成の最初期にそれは関係しているからである。
- しかし、叶えられないでー拒まれたがゆえにー無意識化された欲求は、何としてもこの欲求を代わりの方法ででも充足したいという「強迫のとりこ」になってしまう。
- それには「自分の子」が一番うってつけである。新生児は、良かれ悪しかれ自分の両親が頼りである。自分の生存が両親の援助を手に入れることに依存しているので、両親の援助を失わないためには何でもする。人生初日から、自分にできることなら何でもしようとするであろう。それはちょうど、小さな植物が生き延びるために太陽の方向を向くのと同じである。
ここまで私は、多少ともすでに知られた事実という基盤の上を離れなかった。以下に述べる考えは、私が行った分析治療などに基づくもので、きわめて注目すべき幼少時代の運命が見出される。
- 母親が、結局のところ情緒不安定な母親であった。このような母親は、自分のナルシシズム的バランスをとるために、自分の子供のある一定の態度なり、一定の生き方をあてにしたのであった。このような不安定は、おそらく子供や周囲に対しては、権威主義的な、そういう全面的なファサードに覆われていて、隠されたままでありえたのであろう。
- 加えて、子供の持つ驚くべきほどの能力があった。つまり、母親もしくは両親のかかる欲求を直感的に、ということは無意識のうちに感じ取ってこれに答えようとする能力であり、つまり、自分に無意識のうちに割り当てられた機能を引き受けようとする能力である。
- この機能が子供に「愛情」を保証してくれた。つまりその愛情とは、ここではそれは両親によるナルシシズム的備給である。子供は自分が必要とされたことを感じたわけで、それこそ彼の人生に生存保証を与えたのである。
このような能力は、磨き上げられ、非の打ち所がないものとなる。
このような子供たちは、自分の母親の母親(頼られ手、慰め役、助言者、支え)になるばかりではない。自分の弟妹の世話係も一手に引き受ける。とどのつまりは、他者の欲求の無意識な信号に対する特殊な感応装置とでもいうべきものを作り上げてしまう。
このような洗練された適応装置こそ、その子が幼児期に人生を生き延びる手助けとなるが、その適応装置の形成と仕上げのなかに、ナルシシズム障害の根本原因もひそんでいるのである。