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2021年5月10日月曜日

ダイアローグー本当の対話についてー


「 なぜ、あの人を説得できないのか?」

「なぜ、私たちは分かり合えないのか?」

このようなことは、親密になろうとすればするほど、出てくる悩みだと思います。

そして、気がつくと勝ち負けのゲームのように、自分の主張を繰り返して、相手がなにを言っているのかさえも聞けなくなることがあります。

動画では、主に悩みが解決しない理由として、その原因とか、本当の悩みについて詳しく解説しましたが、ブログでは、「わかりあう」とか「理解する」などをメインに考えていきたいと思います。


今回の内容は、生物学者であり哲学者でもあるデヴィット・ボームのダイアローグからお伝えします。

学者さんであり哲学者さんなので、非常に言い回しが難しいです。

でも、このようなお堅い職業の方がダイアローグ……つまり対話について研究するとは、面白いと思いませんか?

また、彼自身は執筆というものにそれほど興味がなかったのか、論文を組み合わせたような内容になってます。




自分の意見に固執すると……?



こちらのタイトルは「ダイアローグ」です。

つまり、対話という意味なのですが、彼自身が対話に失敗した人物とも言えます。

彼は、アインシュタインと一時期、とても親密になりました。

でも、よくあることですが……ある意見の不一致により、その関係が終了してしまいました。

そして、その後二人の仲を取り繕おうとした仲間の努力もむなしく、その(仲直りのためにお膳立てされた)パーティーではお互いに顔を合わすことなく、会場の隅っこと隅っこで、身を潜めていたそうです。

……なんか人間らしくて共感ができます。

確かに、書かれている内容は、この解決策を自分で書いているような感じがします。

つまり、アインシュタインと揉めたのは、お互いにもつ「真実」が違ったということです。

それを、「私が正しい」という大前提から両者譲らずで、仲違いしてしまった……ということです。

このように対話というタイトルで論文を書いた人が、失敗するくらい、人間は「私が正しい」という大前提に執着してしまいます。

あなたも、大切な人とか、上司などと「私が正しい」という理由で、揉めたことはないでしょうか。

考えてみたら、そればっかりだと言えるかもしれません。

また、家庭とか学校、職場もそうですが、上下関係がはっきりしているところでは、上の立場の人が、権威性を発揮してしまうので、下の人はどうしても従わないといけなくなります。

でも、これは下の人が我慢しているだけで、ボームのいう「腐敗したシステム」の土台になっているように思います。

ウンベルト・マトゥラーナは、このように言います。

人が他の人に「真実」というものを語るとき、彼らが実際に行なっていることは、服従を求めることである。
自分たちには、真実を見る特権があると主張しているのだ。
ということです。

これは、真実という言葉を、少し視点を変えると「良い悪いの判断をできるのは、あなたではなく私なのよ」というメッセージが込められている感じがあります。

このような一方的な関係は、機能不全になりやすく、土台は脆く崩れやすいとも言えます。

では、こう言った機能不全の状態ではなく、新しく友人を作りたい、信頼できるパートナーが欲しいと思った時には、どのようにしていけば良いでしょうか。


コミュニケーションとは?


よくコミュニケーションという言葉が、飛び交いますが、本当の意味を知って使っている人は、どのくらいいるのでしょうか?

ボームによると……

  • ある人から別の人へ、できるだけ正確に情報や知識を告げる
  • 互いに協力して、新しい価値を創る

ということです。

一般的に言われているのが、前者で、目新しいのは後者ではないでしょうか。

また、日本では正確に告げるだけではなく、目上の人を喜ばせたりする迎合も、コミュニケーションと思われているかもしれません。

しかし、こうしたことをうまく使って、口ばっかりでなにもしないような人が、今まではうまく出世してきたようにも感じます。

でも「なんか違うよな……」という気づきがそろそろ出てきてもおかしくはないはずです。



暗黙の領域



では、後者の互いに協力して新しい価値を創るとは、どういうことでしょうか。

これは、会社とか社会だけでなく、個々人の間にも言えることです。

つまり、人と人が親密になる過程だとも考えられます。

例えば、付き合いそうな男女が知り合ったと考えます。

今までは、「自分にとってどんな相手が都合が良いか?」などを軸に相手を見ていたとします。

これは、自己愛的な相手をもののように利用する考えです。

それから少し成熟して、「この人と親密になりたいな」というような気持ちが芽生えてきたところだとします。

それに必要なのはなにでしょうか?

それが、「暗黙の領域」です。

これは、趣味などを通して例えば「猫が好き」というような価値観を受け取ります。

そして、相手は「なぜ、猫が好きなのですか?」というような問いかけをします。

これは、猫が好きな人は多いですが、その理由によって、聞いている人の共感度が高まります。

そこで「実は私の友達は、昔から猫だけだったの」というような返事をもらうと、受け取った側は、「もしかすると、ずっと寂しかったのかな?」などと理解をしようとします。

こうしてお互いの間で、いろんなきっかけによって、意味を共有していきます。

それは実際に語られなくても、「きっとそんな人なんだな」という暗黙の中で理解していくような感じです。

この時間が大事なのです。

このような暗黙の領域での交流ができることで、全く違う場所で生きてきた二人の人が、接着剤のように「意味の共有」によって繋がるということです。

つまり、本当の対話とは、誰かを説得したり、言い負かせることではなく、こう言った目標とか作戦のないところから生まれるものだということです。

私たちはいかに間違った対話をしようとしたり、押し付けられてきたかがわかりませんか?

このように押し付けることを考える人は、ただ「どうやって今まで通りの生き方を継続するか」だけを考えます。

そのような先生や親などは多くないですか?

だから、その人自身にも、その人と誰かとの関係性にも、両方とも創造性はないのです。

でも、これも性格の一部ですから、変えることは非常に難しく 仕方がないのです。

ただ、多くの人のコミュニケーション論が間違ったものである原因は、きっとですが このようなコミュニケーション論を教える側の人間の、偏った解釈によって勝手に改良されてきたからではないでしょうか。

だから「迎合することがコミュニケーション」ということになったのかもしれません。

つまり、「真の対話を避ける方が良い」と思っている人たちによって、本物の教えがゆがめられてきたのだと思います。

そう考えると、このような歪みはあらゆるところにあるように思います。

これを自分で見極めて、真に受けないとか無視するスキルをつけていくことが、重要です。


対話の目的とは?


今まで言ってきたように、対話とは指示を受けるものではありません

また、良いか悪いかを裁判するものでもありません

また、意見の交換をするものでもないのです。

ただ、多くの人が意見の交換こそが「対話だ」と思っていると思います。

でも、あなたの周りの人たちの、会話のキャッチボールは真の対話なのでしょうか?

例えば、近所のおばちゃんが自分の言いたいことを言って、そして相手も自分の言いたいことを言いあう……これは会話のようで会話でない気がします。

どっちも聞いて欲しいのだけど、それではマナー違反だろうから、聞くふりをしているのだと思います。

では、真の対話とはどんな感じでしょうか?


真の対話とは



ボームは、このように説明してます。

何か一つ自分の「意見」を、参加者のいるところで、挙げてみます。

これは議題というはっきりしたものではなく、単に、「私はこう思うのだけど……」と言った感じです。

そこで、どこかに導くのではなく、また、すかさず裁判するのではなく、「そうではなくこうでは?」という説得でもないのです。

ただ、その意見をボケーっ(コントロールのない状態)と、眺めるのです。


ちなみに誰かを説得しようとしている人は、その相手に疑念を抱いている証拠です。

疑念がなければ、他人の意見をコントロールしようとしないはずです。

そうではなくただただ……




「あーあなたの意見は、そういうことかーーーーーふんふん… 

というように、みんなでその意見を眺めるような感じです。

そこに「答え」はいらないのです。

もちろん、二人などの場合も同じです。

この時間は、さっき言ったような「暗黙の領域」が生まれています。

「こう考えていたんだね……」という時間です。

そうすることで、100パーセントその人の意見に賛成できなくても、「あなたの言いたいことはわかったーウンウン」というような、意味の共有はできるはずなのです。

つまり、そこでは良い悪いを決めることをしないルールにすることです。

だから、誰も傷つかないのです。

また、このような反応であれば、「また次の機会に意見があれば、臆せず言ってみようかな」と自信を持てるはずです。

このように ただ受け止めてもらって、批判とか指図のない経験は非常に重要です。

人によっては リラクゼーションとかカウンセリングに近いとも言えます。


でも、このような経験のない人は、ついつい戦闘態勢になってしまいます。

そして、その場で浮いてしまい、最後には自分のことも傷つけてしまうのです。



まとめ


私たちは日々の忙しい生活の中で、また、「勝つか負けるか」のような緊張した空気の中で、いつの間にか自分を防衛し自分の意見を守ることに執着をしてしまいます。


それは、きっとですが今まで深く傷ついてきた人ほど、それが強く出るはずで、今日の話のような「猫が好きな理由を聞いて共感する」というような経験は、ほとんどないかもしれません。

常にジャッジされるとか、良いことをしたら褒められる、というような他人からの判定を待つことが、対人関係の基本であったなら、今回の「何もしない」ということが苦悩になるのです。

でも、その苦悩は最初だけで、慣れたら癒しになると思います。



もちろん、あなたを傷つける人からは、身を守る必要はあります。

でも、その人の気持ちを理解したいとか、一緒に創造していきたいと思える相手には、このような、判定や批判のない暗黙の領域を使うという方法もあるのです。

ぜひ、気を許せる仲間からはじめてみてはいかがでしょうか。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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