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2021年3月25日木曜日

「実は知らない」3つの絶望


 

あなたは、絶望してますか?

あまり、絶望などという言葉は使わないかもしれませんが、でも、生きていたら何回かは絶望を味わうことは決して珍しくないと思います。

今日は、キェルケゴールの「死に至る病」から、彼のエキスを入れながら、3つの絶望について説明していきます。

きっと、絶望の淵にいる人は「なーんだ」と思って、今まで絶望したことがない人は「え?」と思うかもしれません。


ということで、まずはキェルケゴールについて、簡単に説明します。

もし詳しく知りたいかたは、ウィキペディアとか彼の著書などをご覧ください。



キェルケゴールについて



彼自身がまさに、生涯「絶望」に向き合った人ではないかと思います。

42歳で倒れて急死するまで、結婚はせず10代の時に知り合った女性に思いを残したまま、生涯を終えたと書いてあります。

この「死に至る病」などの彼の書籍は、主にキリスト教を広めるために、書いたと言われてますが、幼い時にはキリスト教に背を向けた時期もあったようです。

孤独と葛藤……このような言葉がピッタリくるような気がします。

このような孤高の人に、心奪われるファンは多いように感じます。

私も詳しくはないので、専門書などで確認してください。


絶望について


絶望と言われて、どんなイメージが湧くでしょうか?

困窮、病気、悲惨、不運、災厄、苦痛、悲哀、落胆……などが思い浮かびませんか?

でも、これらはキェルケゴールは、絶望、つまり死に至る病ではないと言います。

このような出来事もしくは、それによって起こる感情は、あくまでも「きっかけ」であって、本来は「自分自身」をめぐって絶望している、ということです。

これは、どういうことでしょうか。

たとえば、リストラにあって絶望している人がいるとします。

でも、リストラは単なるきっかけであって、それ以前からその人はすでに「絶望」している。ということです。

もし、リストラに合わないとしても、職場の人間関係とか家族の問題などで絶望していたかもしれません。

つまり、そのきっかけに注目してこだわり続けることは、本来の絶望から目をそらすだけのことになってしまいます。

このことを、キェルケゴールは「人生の浪費」と呼んでいます。


そこではなく、本当の絶望、もしくは問題に向き合うことが大事だということです。

では、本当の問題とは何でしょうか?

それは、自分の問題です。

うまく本質に入ることができたら「自分というものがないこと」にたどり着くことになると思います。


つまり、何かをめぐって絶望しているうちは、本来的な絶望ではないと言われます。

このようなことは私たちの生活で、本当によくあることです。

「あの人が問題で……」

「あの人が私を絶望に陥れた!」などです。

その気持ちはわかるけど、本当に絶望から出たいなら、自分以外のことに執着するのは、彼のいう人生の浪費になってしまいます。


また、キェルケゴールはこのようにも言ってます。


絶望とは長所である


絶望できるのは、「人間は精神である」という無限の高さ、崇高さの印であるということです。

また、(ちゃんと)絶望することができる人は、無限の長所であるということです。

この(ちゃんと)を付け加えたのには理由があって、実は ちゃんと絶望しないままいきている人がとても多いということなのです。

つまり、ちゃんと絶望すれば人生の軌道修正なり、新たな可能性が見えるのに、それを避け続けるからこそ「死にたくても死ねない」ほど、つらくなっていくという意味でもあります。



このような意味も含めて、キェルケゴールは絶望を3つに分けました。


絶望とは、精神における自己における病であり3つの姿をとる

ということです。

これが、キェルケゴールの伝える重要な部分です。

1.【絶望して】自己を持っていることを意識してないこと
2.【絶望して】自分自身であろうとしないこと
3.【絶望して】自分自身であろうとすること

これは、どれも絶望がちゃんとできなくて、苦しんでいる状態、と言えるかもしれません。

でも、それに自分が気がついて、どう取り組むかが重要です。

では、上の3つを説明します。


1.【絶望して】自己を持っていることを意識してないこと

これを、別の言い方として「非本来的な絶望」または「無精神的な絶望」と言われてます。

つまり、絶望にすら 気づいてない人です。

これは以前に「消えたい」という動画でも言いましたが、そこでいう「普通の人」のことです。

キェルケゴールの言葉でいうと、「絶望を絶望と知らずにいる絶望」という難しい表現をしてます。

これは、たとえばマスコミの情報に踊らされたり、立場や肩書きに弱い人などが当てはまるかもしれません。

自分では「絶望などしたことない」と言う人がいますが、「これこそが絶望」ということです。

でも、世の中で胸を張って生きているのは、この人たちです。

自分自身もなく、信じるものもないという中で、感覚的なもの(快・不快)を重視して生きていきます。お食事などの目の前の快楽が大事なのです。

そして、知性や精神に取り組む勇気がないので、知性や精神に取り組む人を恐れながらも、それがバレないように知性のある人や、精神性の高い人をバカにしたりして軽視します。

また、一人じゃ怖いからまとまって孤高の人を攻撃します。

キェルケゴールはこのような生きかたを、「人生をやりすごす生き方」だと言います。

このような人は、何か絶望を体験しても、そこから自分を導くものがないので、絶望など意味がないということになります。


2.【絶望して】自分自身であろうとしないこと


これは、絶望した結果「こんな私だから、失敗したのだ」というような結論を出して、絶望から這い出るために「自分と違う自分」になることで、生きなおそうとすることです。

これを「弱さの絶望」と言って、絶望を機に「献身」とか「迎合」などによって、1番の人たちの仲間入りをする……ということだと思います。

つまり、退行してしまうということです。

こちらは、受身的・女性的な絶望への対処法と言われます。



3.【絶望して】自分自身であろうとすること


それに対して、次は絶望した結果「なんとしてでも自分を守る」と言って反抗するような対処です。

こちらは、行動的・男性的な絶望への対処法で、引きこもりなども当てはまりそうです。

この3つの絶望の中では、より自分に近いところにいるのですが、その「こだわり」によっては、非常に苦しい場面でもあります。

ここでは2つのタイプに分かれます。

行動的な自己


こちらは、「自分を支配しようとする、どんな力も認めない!」という姿勢です。

「自分は神である」というような、錯覚があるかもしれません。

これは、空中で剣を振り回すようなもので、その力はなんの影響力もなく、根底にあるのは「無(自分がない)」という状態です。



受動的な自己


こちらは、自分に向き合おうとするとき、「根本的な欠陥」に出くわしてしまいます。

これこそが、本来の問題であり、取り組むことなのでしょうが……

どうしても認められずに、その問題を遠ざけてしまいます。

結果的に、自分に向き合うことはなくそれよりも、救ってくれそうな人を恐れて「救いを求めるくらいなら、今のままで良い」と心を閉ざします。

この根底には、自由を放棄するという「屈辱」を避けたい気持ちがあるのです。


では、このような絶望の状態から、抜け出せる方法はあるのでしょうか?





絶望から抜け出すには?



それは、「反省」です。



でも一般的に言われている「反省」ではないと思います。

何らかの有用な知見を期待して、自分がしてきた行動や発言に関して、振り返ること。一般的には、振り返ったあと、それについて何らかの評価を下すこと、あるいは自分の行動や言動の良くなかった点を意識しそれを改めようと心がけること。

こちらは、ウィキペディアに書いてある反省の意味です。

一般的に反省というのは、今までやってきたことをダメだったと結論づけて、今までやってきたことに反対をしてきた、身近な人の言うなりになる。

と言うような意味合いが、日本では多くあると思います。


でも、これは違うと思ってます。

それは、反省という名の「従属」もしくは「奴隷」です。

主に3つの絶望の1番の人に従属したり、奴隷になるのです。

嫌じゃないですか?

せっかく絶望までたどり着き、つらい思いをして原点に戻ってしまうのです。


キェルケゴールの言葉でいうと、反省とは「何かが媒介を通して、別の何かにたどり着くこと」と言われます。

「媒体を……」というのは、まさしく「絶望」ではないでしょうか。

たとえば、「あれ?何か思い違いをしてたかな?」などと思うことはないでしょうか?

自分らしくもないことを、誰かに認められるために、やってきたりとか……

それって「自分」じゃないですよね。

それに気づくことが「反省」の入り口で、自分が今までやってきたことについて、「本当にやりたかったことなのか?」などを、改めて検討し直すことだと思います。

それこそが、自分に向き合うということであって、それはさっき言ったように「誰かのいう通りになる」ではないです。

それは、さっき言った3つの絶望の、2番目の絶望した後に、自分ではない他の何かになろうとすることです。

それは、絶望から立ち直ったわけではなく、違う自分としての生き方がスタートしただけで、それは絶望の中なのです。


また、最初に伝えた3つの絶望を出します。

1.【絶望して】自己を持っていることを意識してないこと
2.【絶望して】自分自身であろうとしないこと
3.【絶望して】自分自身であろうとすること

この1番はどうでしょうか?

あなたが日頃、目の前にいる多くの人が、このタイプではないでしょうか?

このタイプは、まず このまま一生を過ごすことになると思います。

ですから、気づいてもない人に、「あなたは、絶望に気づいていませんね」などと、教えてあげる必要はないのです。

このような人は、思い悩むことも少なく(ということは「自己」ではないのですが)その分、一見 安泰で幸せな生活を送れるというメリットもあるのです。

ただ、どこかでまた絶望は巡ってきます……

注意したいのは、悩む人は、このような1番のタイプの忠告などを、いかに適当に交わしたり 感情的に振り回されたりしないようにするかが重要なのです。

また、差別されたりすることに対する「耐性」をいかにつけるかが、今後の人生を左右すると思います。

これに屈すると、せっかく絶望したのに、このような人たちの仲間に入って、身を縮めて生きることになります。

それに対して、絶望を通して、自分を反省した人は、それについて苦しみもがき、自暴自棄になったりすることもあります。

ただ、それこそが「自分に向き合う」ということであり、「自分はどのように生きるのか」という目標というか、指針もしくは信念のようなものを、作るきっかけになると思います。

これこそが絶望から立ち直り、「自分」「自己」を見つけることです。

つまりは、絶望という経験がないと、この反省という行為の中で「自分」「自己」を見つけることができないということにもなります。



自己を取り戻すには?


先ほど、絶望から蘇るには「反省」が必要だと言いました。

では、その反省の中で、自己を取り戻すために、本来の自分自身になるにはどうしたら良いのでしょうか?

これは、正直いうと終わりのない旅のようなもので、ずっと発展途上であり それが終わるといくら若くても、魂レベルでの衰退となってしまいます。


(空想的でなく)想像力を強めていく


私たち人間は、何をモチベーション(やる気)にして、感情を奮い立たせたり、意思を持ったりするのでしょうか。

それは、まさに「想像力」です。

でも、ここで多くの人が勘違いしがちなのは、「空想」です。

空想と創造の違いは何でしょうか?

それは、「具体的であるかどうか」です。

よく、若い人がやみくもに「自分はすごい人になる」と行動したりします。

また、老人が自分が若かった頃の自慢話をすることがあります。

これは、両方とも「空想」です。

理由は、さっきも言ったように、具体的でないことが特徴です。

この空想は、現実の自分からどんどん離れてしまいます。

このように、自己を失う時は、空想の中にやみくもに入って、自己を失う場合と、もう一つあります。

それは、「他者」によって自分の自己を、騙し取られることです。

この「他者」は、自分を絶望するような人間ではないと確信している人や、今いったように「空想」の世界で生きている人です。

この人らによって、絶望している人を自分の世界に引きづり込むということです。

まずは、このような自己を遠ざける状況にいないか、確認をしてみましょう。

つまり、絶望から救い出せるものは、具体的な想像力からくる「可能性」を見つけていくことです。

可能性こそが、絶望の解毒剤だとキルケゴールは言います。

そして、その可能性を信じることです。

つまり、自分を信じる、自分の未来を信じるということではないでしょうか。

これはさっき言ったような、空想を信じることとは意味が違うことを、理解しておくことが大事です。

つまり、ちゃんと絶望ができる人は、失敗したことや成功しなかったことを、嘆くのではなく、本来の自分自身になれなかったことを反省することなのです。

この岐路の中で、本来の自分自身にならずに、身近な人に、自分を騙し取られることを、「よくなった」とか「立ち直った」と勘違いしている人は、多いように感じます。



絶望とは希望である


まさしく絶望とは希望です。


ピンチはチャンスという言葉がありますが、私自身もちゃんとチャンスにしてこれなかったという反省もあります。

また、絶望をいくら経験しても、そのあとに「他の自分に成る」ことで安易に解決に急いでしまったり、ただ反抗的になって社会などに喧嘩を仕掛けても、何の意味もないことがわかりました。

最後には、「自分のところ」に戻り、本当の自分のドアをノックすることこそが、反省であり自分と向き合うことだと思いました。

以上で3つの絶望を終わります。

ありがとうございました。


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