シンクロニシティ 〜なぜ、導かれる人と努力しても何も起きない人がいるのか?〜
今回は、固体物理学と量子論の基礎の研究を行ってきた作家であるF・D・ピートという方が書いた「シンクロニシティ」から、なぜ人は変わりたいと思っているのに変わることができないで、苦しむのかについての答えを求めていきたいと思います。
私は、この書籍を読んで、まさに「シンクロニシティを受け止めることができるかどうか」にかかっていると思いました。
でも、今回お伝えする内容は、決してスピリチュアルなものではなく、いろんな方法でシンクロニシティについて、研究された結果だと思います。
それを、私なりに要約していきたいと思います。
もちろん、専門書などを読める方は、ぜひ書籍(シンクロニシティ ピート)を読んでみてください。
シンクロニシティとは?
この言葉は、よく使うかな?まぁ、占いとかする人などは、好きなのではないでしょうか。
偶然の一致とか、全く違う場所とか、違う年代で起きたことに共通点を見つけるようなものです。
それが、あっているのかどうかは別として、「そこに意味を見出す」ことは、私たちが生きる上で非常に重要だと思います。
ユングはカウンセリングの時に、よくこのシンクロを取り上げていたそうです。
クライエントが語る中に出てくる「ちょっと異質なこと」について取り上げて、そのことと心の関連を考えていくのです。
でも、昔から人間の多くは「原因があって結果がある」という因果律を好みます。
だから、シンクロのような「偶然の一致」は眉唾なのです。
今の時代でも、「シンクロはスピリチュアルだ」と片付ける人は多いと思います。
ただ反対に盲信するのは、現実から逃避する目的になるので意味が違ってきます。
でも、このようなユングのシンクロ論に共感したのが、物理学者のパウリでした。
パウリは自らが病んでしまってカウンセリングを受けることになって、このシンクロを実際に味わうことになりました。
ちなみに余談ですが、ある日 彼が入院した部屋が「137」で、彼は「ここで死ぬ」と直感したそうです。なぜなら「137」というナンバーは彼にとって非常に重要なものだったからです。そして、実際にそこで亡くなったそうです。
このようにユングにパウリの物理学が合わさることで、非常に説得力が出てきます。
例えば、因果律でいうと、「りんごはそれを望もうが望むまいが、木から落ちる」という考えかたです。
それに対して、シンクロは、
こころの内的プロセスを映す鏡としてふるまい、内的な変化の外的な発現をする
と説明します。
つまり、いろんな現象として起きることや、偶然街で見かけた看板に、自分の思いが反映されていたように、自分でも自覚することが難しい内的な変化を、外的な出来事によって、自覚することができるようになるということです。
これができたら、あまり自分に敏感でない人も、外部で起きることなどを観察することで、自分の内的な変化とか、「どうなりたいか」などを知ることができるようになるということです。
ピートはこのようにも述べています。
シンクロは、しばしば変換の時期に結びついている。
例えば、誕生や死、恋愛や心理療法や集中した創造的な仕事や、転職に至るまで、まるでそういった内的な構造の作り変えが外的な共鳴を生み出すか、あるいは心的エネルギーの爆発が、外の物理的世界へと伝えられていくかのように
つまり、これは決して神秘的なものではなく、まさに就職とか恋愛相手の選別にも、シンクロは有効であるということなのです。
これがないと、自分の判断に頼ることになりますが、その思考や感情の多くは、親などから受け継いだものであり、それに従うことは今までの先祖から受け継いだ固定的な思考(ルールや世間体)を、使っていく……ということになります。
シンクロができるには?
そうはいっても、シンクロはある日突然 生まれるものではないと思います。
先ほど、内的な変化が外的なものを通じて、教えてくれるという話をしましたが、どんな状況で、私たちの内的な変化は起きるのでしょうか。
私はよく「ピンチこそチャンス」と言いますが、まさにこれです。
それは、平凡で幸せな時には、内的な変化はなかなか起きにくいということでもあります。
別に幸せなのだから、現状を変えない努力はしても、変える努力はなおさらしないということです。
これも、普段から言ってますが、トラウマ持ちなどが強いのは、このピンチの状態を常に作っているからです。
ただ、平凡で幸せな時代には、トラウマ持ちのような緊張感を持ちながらいきている人は、なんか浮いて見えると思います。
でも、ある危機的な状況など(災害とかパンデミックなど)になると、この強さを発揮することになります。2020年はまさにそれを実感した年でした。
では、私たちはどうやってこの混沌から覚醒へと変化していくのでしょうか?
ベナールの不安定性
動画では、鍋の水が沸騰するまでの状態を、例に出しました。
鍋の水が沸騰した状態を、覚醒した状態だとします。
それに対して、水が温まっていく状態(循環している状態)を、混沌、もしくは悩んでいる状態としました。
このような物理的な変化が起きて、物質が水から気体に変化していくような変換を起こすことこそ、「人間が変わる」という一大事業なのです。
これを、ピートは非秩序から秩序の状態になる。と説明してます。
この秩序というのは、今まで親とか先祖などから受け継いだ「秩序」とは全く違います。
既成の秩序を終わらせ 👉 ゼロになり混沌とし 👉 新しい秩序が生まれる(爆発的に)
こんな感じです。
このような経験を何ども積み重ねることで、そっちこそが本物だと確信するようになります。
そして、周囲からのガヤもあまり気にならなくなってきます。
また、環境を変えたほうが良いと思う人もいるでしょう。
このようにして、私たちの価値観は変化して、広がったり捨てたりしながら、自分オリジナルのものになっていくのです。
創造性について
私たちは、よく創造力などという言葉を使いますが、どういう意味なのでしょうか?
ウィキペディアには、面白い説明がありました。
創造(そうぞう)とは、新しいものを産み出すこと。創作や発明、あるいは新しい考え方など、オリジナリティの強いものに対し使うことが多い。 創造力を育むには「退屈な時間」が重要と指摘されている。
ほぅ……まさに退屈な時間は重要だと思います。
なんか、いろんなことがわかった上であえてサラッとこのようなことを、言っている感じがします。
私たちは、何かを作ることが「創造」だと思っていますが、これはともすると「何かを制作さえすれば創造性がアップする」というような誤解を招いてしまいます。
そうなると、私たちは身近な情報とか、どこかで拾ってきた知識などを使って、何かを作り出そうとします。
これって、前にも書きましたが、既存の価値観の中なんです。
料理などでも、何かを見ながら作るのは既存の価値観の中のことです。
でも、本当の想像力というのは、まさに退屈な時間……ピートは不動の時間という言葉を使ってますが、既存の価値観などを捨て去った後に、ゼロから作り出す(見つける) 自分の内側から出てくる力(価値観、信念、思考、感情など)のことを言います。
そのためには、いったん既存の価値観に疑問を持ち、捨てるというプロセスが必要になります。
これを「自己の死」とピートは言ってますが、それによって初めて「今まで機械的に使われてきた慣習やルールなどからくる自分の考えを捨てる」ということになります。
捨てることによって、真の自己、真の秩序というのが生まれます。
もちろん、既存のものを再度取り入れることもあるでしょう。
新たに取り入れることも、多いはずです。
そして、それをどんどん広げていくのです。
それが創造性ということになります。
でも、多くの人はまったくそんなことに気がつかないか、気がついたとしても、無意味だと思うのではないでしょうか?
また、周囲の反対などによって、従来の価値観に収まる努力を始めたりするようになります。
これが、元の木阿弥ですね。
でも、このような周囲の働きを「更生させた」とか「あの時、止めてなかったら大変なことになっていた」などとよく語られます。
でも実は、その行為こそが「既存の死を止める」または「自己殺し」……ではないでしょうか。
ただ、動画でも言いましたが、このような鍛造用金型のようなルールとか価値観、文化などは、すでにかなり昔に作られたものであり、まともな人であれば、もうそれは時代に合ってないことがわかります。
そして、今か今かと鍛造用金型が、その役割を終えて崩壊して朽ち果てていくのが、わかっているのに、それを使い続けようと必死で守っている力が、いまだに強いように感じます。
ただ、ここまでずっといってきたように、昔からの慣習などを一度壊すことによって、無の時間の後でしか新しい価値観や思考などが生まれないように、既存のシステムが壊れることは、今後のためには 必要不可欠なことであるように感じずにはいられません。