ロロメイはアメリカ合衆国の心理学者です。
臨床心理学者でありアメリカにおける実存心理学の開拓者です。
カールロジャーズ、エイブラハムマズローらと共に人間性心理学を代表する1人と見なされています。
両親の離婚姉妹の精神障害といった困難を抱え多難な成長期を過ごしたそうです。
このような経験によりロロメイの編み出す言葉は真実と心を病んだ人たちへの共感があふれています。
では早速行きましょう
ロロメイの言葉 1
自らの弱さを感じ取っている人は弱いものいじめをやり劣等感のある人はほらふきになる
これは意識と無意識が乖離することにつながります。
それこそが悩みの元であるのではないでしょうか。
ロロメイの言葉 2
空虚感と無力感のもつ最大の危険はそれがはやかれおそかれ苦痛にみちた不安および絶望に至りつくということでありしかもそれが訂正されないかぎり価値意識の喪失、もっとも高貴な人間性をも阻止してしまうことである
これは空虚感と無力感を改善していくためには、あとに出てきますが「勇気」を持って自分を空虚に感じさせる存在と戦うことだと思います。
実際に戦うかどうかが大事なのではなく、戦う勇気を持って生きることが大事なのです。
ロロメイの言葉 3
子どもが新しく一人立ちしようとしているときわずかな支えも与えられないほど両親が意識的ないし無意識的に自分たちだけの目的や快楽のために子どもを利用したり子どもを憎んだり拒否するようなとき子どもは両親にしがみついて拒絶と頑固さという形でのみ独立心を満足することになる
独り立ちをしようとするときそれを支える親がいることはとても幸せです。
でももしそのような親でないならそれに自分自身がちゃんと気づくことが何よりも重要です。
多くの子供たちは愛のない親が、自分を支えてくれていると思い込もうとしてブラックホールに入り込んでしまうのです。
ロロメイの言葉 4
子どもが試験的に「いや」とはじめて言いだすとき両親が子どもを愛し勇気づけるよりもかえって子どもをぶつようなことがあればその後子どもは本当の独立できる力の表現としてではなく単なる反抗としていやというであろう
この試験的にいやとはじめて言いだすのは、自己主張の始まりです。
でもこのように自己主張を否定されると、多くの子供は自己主張を諦めるか、もしくは思考をそこで停止させて、あえて考えないようにしようとします。
もう少し元気がある子供なら、反抗をしようと試みるでしょう。
ロロメイの言葉 5
もし両親自身が揺れ動く時代の波に押しまくられどうしようもない不安状態に投げ込まれ自分自身に自信がもてず自己疑惑に悩んでいればこの両親の不安は子どもに伝わり、子どもを支配し子どもは自分でも進んで自立しようとすることが危険な世界に生きていると思うようになる
特に一体化している親子の場合は、親と同じように感じてしまう傾向が強くなります。
でも子供自身はその不安は自分の中から生まれたと自分を責めることになります。
ロロメイの言葉 6
もし人間が人間としての「潜在力の実現」につとめないなら人間はそれだけ萎縮し病気になってしまうこれが神経症の本質である。
潜在力の実現とは自分が持っている力を伸ばしていくことです。
この力を見出せない親は多いです。
しかしもっとたちが悪いのはせっかくのその潜在力をバカにしたり否定することです。
そうして子供たちは大きくなっても何もできない何の価値もないと、思い込むようになります。
ロロメイの言葉 7
自己断罪は代用的価値観を得る、最もてっとりばやい方法である。ほとんど価値観を喪失してしまった人々は一般にきわめて強力な自己断罪的要求をもっている。自罰は無価値感や屈辱感からくる苦しみを消す
もっとも容易な方法だからである。
自己断罪とは自分に罪を与えることです。
これは先ほどの五番目の潜在力の実現に失敗し、自分への無価値感を募らせた結果ではないでしょうか?
そして何もかも自分が悪いということにして親の罪も一緒に請け負ってしまうことになります。
ロロメイの言葉 8
「もし自分がこんなでなかったら・・」
「もし悪くないなら、両親はわたしを
愛してくれるだろうに・・」これはどういうことかというと全力を出し切ることを避け自分が愛されていないことを知る恐ろしさを、
回避しているのである。私たちの悩みやその中にある怒りのほとんどは、愛を受けられるはずの人から実は愛を受けられないと、気づいたことが始まりではないでしょうか?
そしてそれを確信しないためあるいは、他者から気づかれないためにいろんな努力をしてきたのかもしれません。
原点に戻るには、ロロメイのいうように、自分が愛されていないことを知る恐ろしさを回避するのではなく、直視することだと思います。
「私は愛されていないのだな」と言ってしっくり来るまで何度も繰り返してください。
案外、認めてしまうと、スッキリするものです。
ロロメイの言葉 9
われわれのたたかわねばならない心理的な闘いは、われわれの依存欲求とのたたかいであり、自由に向かって前進するときにあらわれてくる不安および罪悪感に対するたたかいである。
悩んでいる人のほとんどは、誰かに依存しようとしてうまくいかずに悩み、
その悩みを誰かに解決してもらおうと依存し失敗するケースが多いのではないかと思います。
この悪循環のループを終わらせるには依存問題を自分で解決することになると思います。
ではどうしたらいいのでしょうか?
これもロロメイの言うように「依存をするしないではなく依存欲求とのたたかいである」ことを認めることだと思います。
つまり依存の欲求不満を私はどうするか?です。
ロロメイの言葉 10
私たちに勇気がでない理由は、いちばん恐ろしいことは集団から離れはみ出してしまい
集団と調和しないという事実である。孤立して一人ぼっちになるとかあるいは社会的孤立すなわち笑われあざけられ
ロロメイの言葉 11
創造活動が大量の勇気を必要とする理由の一つは創造とは、幼児的過去への結びつきから自由になることであり新しいものが生まれるためには、
古いものを破壊することである。勇気は、安全な場所からの離脱を意味する。
これは創造活動といっても単なるクリエイティブな仕事とかそういうことではなく、自分らしくとか自分はどう生きるといった意味が強いと思います。
「自分はこう生きたいので幼児的過去への結びつきから自由になる」
と決意をして自分から行動していくことです。
そこで反対されたりバカにされることに立ち向かう「勇気」が必要になるのです。
ロロメイの言葉 12
みずからの自由を守るため時々おこってくる重大な決定だけでなく、
一つ一つの煉瓦を積んでゆく。ささいな決定にあたっても勇気は必要とされる。
私たちは自立や自己主張を始めようとするとき、とかく大きなことをいきなり始めようとして失敗することがあります。
いろんな人のチャレンジを見ていてもわかるように初めてのことは失敗する確率は高いものです。
だからこそ毎日のちょっとした選択とか決定事項から少しづつ勇気を使って自分の自由を獲得して自信をつけていくことが大切
だと思います。
大きなことは最後の最後です。
それまでは練習練習です。
ロロメイの言葉 13
人の勇気を発達させるにあたって最大の邪魔ものは自分自身の力に根ざさない生き方を、
強いられるときである。
これは誰かの望む自分像などを受け入れて育てようとした場合
最終的には自分は何者なのかどう生きれば良いのかわからなくなるということです。
あなたが今自分は何者なのか、どう生きれば良いのかさっぱりわからないなら、逆に考えてみることです。
つまりどこで自分自身の力に根ざさない生き方を強いられたのか?とです。
その地点に戻って自分の勇気を取り戻す必要があるかもしれません。
ロロメイの言葉 14
自分自身の力について内心しばしば無意識的に自信のない親は自分のこどもにとりわけ勇気、独立、攻撃性などを要求する傾向がある。
これは何かスポーツをやらせたり、有名人にさせるというようないわゆる支援ではなく親主導の仕掛けをするケースのことだと思います。
これは自己実現を子供にやらせるという親の代償行為であり、そこには子供への愛というより、自分への愛しかないのかもしれません。その地点に戻って自分の勇気を取り戻す必要があるかもしれません。
ロロメイの言葉 15
親の期待にそって生きることは親からの賞賛や賛辞を得る方法であり親にとっての掌中の玉であり続ける方法である。このように虚栄や自己愛(ナルシシズム)は勇気の敵である。
掌中の玉とは手のひらの上で転がされているという意味です。
あなたが必死でやってきた努力はこのような愛のない人を満足させ、さらに期待をいだかせてしまうことに協力してしまっているのかもしれません。
ロロメイの言葉 16
ほめられたい好かれたいという強迫的欲求についてなぜ自分をそんなに大事にするかというと自分が自らを愛するゆえでなくて美貌とか智恵とかあるいはおとなしい振る舞いとかいったものが親からいい子だといってもらうための手段になっているからである。
承認欲求の依存が高いとどうしても、健康な人から避けられてしまいます。
なぜなら「承認欲求を私たちで満たしたいのだな」と健康な人からはわかるからです。
でも承認欲求は依存性がとても高いので一度与えたら最後追いかけられることがわかっているから避けるのです。
ロロメイの言葉 17
賞賛され賛美されたいという強迫的欲求はわれわれの勇気を徐々に弱めてしまう。もはやわれわれは自分自身の信念よりむしろ他人の信念によりかかってたたかうことになるからである。
他者が重要になることは、自分を弱めることにつながります。
そして問題なのは強迫的欲求とは、誰からも賞賛され賛美されたくなることなのです。
つまり相手が極悪人であっても、強迫的欲求がある人は人を見分けられず誰でもいいので騙されます。
賞賛され賛美されたいという気持ちがつよいと知ることは、自分を守るために非常に必要なことなのです。
ロロメイの言葉 18
われわれがだれかの賞賛を目当てに行動するときその行動自身は自分に対する弱さと無価値さの感情を、そのまま思い出させるものである。そうでなければ自分の態度を卑劣な目的に使う必要は、なにもないであろう。
自分に自分で価値があると信じていれば誰かの賞賛は必要なくなります。
誰かの賞賛のために大切な時間やエネルギーを使っているならすぐにやめるべきです。
これに気づくには、何かをしようとした時に自分のためか相手のためかを考えることです。
相手のためだと思ったならやめておきましょう。
また必死で働くあなたをバカにしながら利用している人が、きっといるはずです。
それが見つけられるようになりましょう。
ロロメイの言葉 19
勇気の品質証明は自分自身の確信の上に立って
行動できる能力であり、頑固さあるいはごうまんさゆえではない。これらは防衛の表現であって、勇気とはいえない。また報復のゼスチャーとしての立ち上がりでもない。
勇気とは誰かと戦うことが目的なのではなく、自分を守り向上させるためのものです。
また自分を守るためにまた向上するのを阻止しようとする存在と、戦うためのものです。
戦うことを目的に生きている人は、自分の中の敵意に気づきそこに取り組むことが重要です。
ロロメイの言葉 20
他人にほめてもらいたいために自分の生命をささげるというパターンを脱却しはじめるとき最大の勇気を必要とするとりわけ困難な段階はその人たちの期待の下で生きていながらその人たちに「彼らが法律をつくる権利を拒否」するということである。これはもっとも戦慄すべき段階である。
これは十四番目でお伝えした親にとっての掌中の玉でありながら
少しづつ自分の権利を確立していくということです。
状況的に一緒にいながらもまたは近い距離にいながらも自分を主張していくことのむずかしさです。
でも子供の場合はそうして生き抜くしかありません。
ロロメイの言葉 21
「人間があやまちを犯すのは臆病だからだ」とニーチェは言う。つまりわれわれが真実が見えないのは書物の読み方が不十分ということではなくあるいは十分な学位をもっていないということではなくわれわれに十分な勇気が欠けているということである。
このチャンネルでも、頭ではすっかり理解できたのに最初の一歩が出ない理由はまさにこの勇気が出ないからだと思います。
もし本当に勇気を出したいなら自分の寿命があと1年だと考えてみたら良いのではないでしょうか?
時間はどんどん過ぎていきます。
今のままで良いですか。
ロロメイの言葉 22
真実直視は自己を意識できる人間の能力にかかっている。人間はこのようにしておかれている直接の状況を越えでることができ「人生をまじめに眺め人生を全体として
把握できるのである」
私たちの目指すゴールはまさに真実直視であり現実をごまかさずにまっすぐに見る勇気だと思います。
それに対して今までの努力は真実を見ないための努力であり、現実から逃避するための妄想でした。
いかがでしょうか。
私たちの目指すゴールはまさに真実直視であり現実をごまかさずにまっすぐに見る勇気だと思います。
それに対して今までの努力は真実を見ないための努力であり、現実から逃避するための妄想でした。
いかがでしょうか
考えたら子供の潜在能力を見つけてそれを支援する親がいる一方で、
子供の潜在能力に気づかないどころか、子供が自分でそれに気づいたら、それを潰していくような親もいるのです。
もしあなたの親が後者のような親だったのなら、まずは自分に「よくここまで生きてこられた」と褒めて欲しいです。
まずはそのような環境で生き抜いてきたことを「すごいことなのだ」と立ち止まってください。
このようにたくさんの悩めるひとが、ロロメイの言葉によって、この不合理な事実に気づき、今までのように他者に絡んで現実逃避をするのをやめて自分の足で進む「勇気」を持ってもらえたら良いと思います。